旧浅草公園地

明治6年1月15日公園設立に関する大政官布告が示達され、東京
府はこれに基づき同年3月25日、浅草寺、寛永寺、増上寺、富岡
八幡、飛鳥山の五公園を指定し公園としての整備を始めた。これが
今に伝わる恩賜公園である。                 
浅草公園地については、建造物、史跡、ひょうたん池と大池、六区
映画街、仲見世などを取り込んだ広い地区を想定しその公園地とし
て指定された。公園指定当初は後記する一〜五区に相当する地域を
その範囲にしていたらしい。明治9年11月新しく伝法院とその接
続地及び旧浅草寺火除地を加えた。後の三区、六区である。またこ
の年の12月には、浅草新畑町、浅草北田原町、浅草象潟町、浅草
花川戸町、浅草千束町二丁目、浅草聖天町、浅草田町一丁目、浅草
馬道町一〜八丁目の16カ町を内務省に申請し十年間公園付属地と
した。この16カ町からあがる地代で、上野公園を除く四公園の維
持費管理費をまかなうことにしたのだった。ついで明治15年7月
浅草寺の子院顕松院(現花川戸一丁目)を合併。同17年1月に至
り、浅草公園は一区から六区にわけられ、同年9月には七区も追加
された。                          

一区

浅草寺本堂周囲
浅草神社、二天文、仁王門(現在の宝蔵門、昭和39年4月再建)
五重塔(現在の塔の南側に有ったが戦災で消失)
淡島堂などがあった。

二区 仲見世

三区

浅草寺本堂と伝法院の敷地
四区 公園中の林泉池、大池、ひょうたん池のあった附近(現JRA)
五区 俗に奥山と呼ばれたところで、公園の北側。(花屋敷付近)
六区 見世物の中心地。(当時の映画街、現在の浅草演芸ホール付近)
七区 公園の東南部。浅草馬道一から四、五丁目等が属した

公園七区はだいたい上記に分割され管理された。
その後七区は公園地から除外され、住居表示制度の実行される時点
では一区から六区までにわけられていた。もっとも、この時点での
浅草公園地は従来の公園地とは性格を異にしていた。明治4年浅草
寺境内は公収されて公園の指定を受けたのだが、昭和22年4月2
日「神社、寺院等宗教団体ノ使用ニ供シテイル地方公共団体所有財
産ノ処分ニ関スルコト」と、いう政府通達が各地方長官に発令され
た。この通達に基づき、浅草公園地は同年5月1日をもって公園地
を解かれたのだった。公園地から解除されて再び浅草寺の所有にな
ったのである。したがって、浅草公園地という性格は厳密にいって
ここに解消した。この場所は浅草寺所有地となり、行政区画上の地
名として残されたのである。なお地代が前後するが、昭和9年9月
1日、二区と三区の一部を浅草雷門2丁目に割与し、五区の東側一
部は浅草馬道1丁目の内となった。浅草雷門2丁目編入部分は仁王
門東南で現浅草2丁目2番の内(二区)、小堀遠州作といわれてい
る庭園部を除く伝法院敷地(三区)だった。公園地内に北谷、東谷、
南谷という俗称があった。いずれも江戸時代、浅草寺の子院があっ
たところである。本堂からみて北側、東側、南側に位置していた。
東谷は現在の花川戸1丁目北部と2丁目の南部一帯。南谷は仲見世
の両側だった。また里俗奥山と呼ばれたところもあった。東京案内
では「五区俗に奥山という」と記している。この奥山は盛り場とし
て江戸人士に親しまれた。志道軒の辻講釈、豆蔵、東芥子介の品玉、
松源水の独楽廻し、長井兵助の居合抜等がここで行われ賑わった。

奥女中透見してゐる志道軒
芥子介雉子の隠れる姿あり
侍にまぎらはしきは居合抜

などの句を残している。                 

浅草公園地は昭和39年の住居表示制度によって、西南一部が浅草
1丁目属し、大部分が浅草2丁目に編入されて現在に至る。  


  
              昭和42年3月 台東区編纂 「下谷浅草町名由来考」より

 

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