日本堤1丁目〜2丁目

 日本堤とは慶応時代幕府の令によって下谷、浅草地方を隅田川の洪水から守るため、今戸から三ノ輪まで山谷堀沿いに築いた土手の名称である。この時日本全国の藩が分担して工事に当たったため、誰言うとなくこの日本堤の名称が使われたと云う。この工事に使用された土砂は待乳山を崩した土砂を使用したと云われており、待乳山も当時はもっと高かったと想われる。今も待乳山の西側 は人工的に削り取られた痕跡を残している。        
  現在の日本堤は、浅草日本堤、浅草山谷町、浅草田中町の一部と、三ノ輪町南部が統合され現在の町名となった。
○浅草日本堤

 本町は昭和11年から18年にかけて起立した。その経緯を述べると次のようになる。昭和11年11月1日、浅草日本堤1、2丁目起立。
  1丁目は浅草地方今戸町の南部、浅草田町1丁目の北側一部、浅草田町2丁目の南部、浅草千束3丁目の北部一部を合併した。
  2丁目は浅草地方今戸町中部、浅草田町2丁目北部。浅草千束町3丁目北隅。浅草東町全部、浅草新吉原五十間町南部で構成された。
 昭和16年11月1日、浅草日本堤3、4丁目発足。
 3丁目は浅草地方今戸町北部、浅草新吉原五十間町北部、浅草田中町の一部を合した。
 4丁目は浅草地方今戸町の北部と浅草田中町の大部を併して誕生した。
 昭和18年11月1日、3丁目は下谷区竜泉寺町の一部を合し、4丁目は下谷区三の輪東側一部を合併した。
 本町の町名由来は日本堤と称する土手があったことにちなむ。正保元年もしくは翌2年に作図されたと考えられている正保年間江戸絵図に、この堤が描かれている。したがって日本堤は正保以前に造られたことになる。洞房語園異本考異に「創設は元和六年なるべし」とある。また増訂武江年表の注意で知れる。ほかに洞房語園異本考異の「日本堤はもと二本堤と書く、聖天より山谷掘の方向一条の堤あるて二条の堤なるよりの称なり」とする説もある。日本中の諸候が築いたからとの説もある。六十余日を日本六十州にひっかけた説。二条の堤だったから。いずれの説をとったら良いのか、今となっては知るよすがもない。

○浅草東町
 本町は昭和11年11月1日、浅草日本堤2丁目の起立とともに同町へ合併されて消滅した。嘉永図は本町のところに「畑」と記している。東京案内によると、
 「元浅草寺領也。安永9年一たび人家を立てしが、寛政六年廃して田圃となし、慶応元年再び市街を設く。明治3年12月社寺門前地一般 に居るより今の町名を加ふ」
 といった町だった。娼家移転については東京府志も「明治五年四月深川ノ娼家ヲ移す」と記している。
○浅草田中町
 昭和9年6月1日、浅草田中町、浅草元吉町、浅草地方今戸町、浅草山谷町を整理して浅草田中町1、2、3丁目が誕生した。そして昭和41年10月1日、住居制度の実施によって、本町は東浅草2丁目、日本堤1、2丁目となった。
昭和9年6月1日
昭和41年10月1日
浅草山谷町西側一部 浅草田中町1丁目 東浅草2丁目
浅草地方今戸町南部東側
浅草元吉田町大部
浅草田中町南側大部 浅草田中町2丁目 日本堤1丁目
浅草元吉田町北側一部
浅草田中町北側大部 浅草田中町3丁目 日本堤2丁目
浅草田中町西側 浅草田中町

 このようになる。浅草田中町は昭和16年11月1日、浅草日本堤3、4丁目の起立によってその内に入れられ消滅したのである。そして昭和41年10月1日の住居表示制度の実施で旧浅草田中町(昭和9年以降の町)は日本堤2丁目の内になった。
○旧浅草田中町
 新撰東京名所図会、東京案内によると、明治24年3月。元地方山谷町字田中中耕地の内と元千束村字西耕地の内を合して起立した。嘉永図は本町と思われる地域に田地と二箇所記入し。「俗ニ田中ト云う」と記している。また寛文図には単に「田」とある。田の中といったことで俗称田中といい、町の起立とともにその俗称を町名にしたのであろう。
○浅草元吉町

 東京案内、新撰東京名所図会によると、本町の沿革及び町名由来は、もと山谷町の内で田中と呼ばれた地である。その後年月は不明であるが、幕府持筒同心の受領地となった。天保14年上地。ついで弘化元年深川中島小普請組、黒鍬組同心の受領地を移し、弘化三年二月残地を住民の受請地にした。ここに本町が起立したという。そして明治24年3月元地方山谷字田中耕地の内を合した。町名は祝名である。
 このような具合になる。
 持筒組は戦時の鉄砲隊で、平時は江戸城内の仕切門を警護する役だった。同心は隊士といったところ。小普請組というのは家禄三千石以下の旗本、御家人で、無役の者が入れられた組織。役職を離れると、三千石以下の旗本、御家人はすべてこの小普請組に入れられた。そのことを小普請入りといった。無役とはいっても、城や建物の修繕をする際には小普請奉行の下で手伝を命じられた。小普請とは小修繕の意である。持筒組、小普請組ともに若年寄に属していた、黒鍬組については万年町の項を参照されたい。

○浅草山谷町
 昭和7年2月1日、住居表示制度による変更前の本町々域が定められた、そして昭和41年10月1日、浅草山谷町がなくなって、新しい町に整理統合された。
昭和7年2月1日
昭和41年10月1日
浅草吉野町北側一部 浅草山谷1丁目 清川1丁目
浅草山谷町南側一部 東浅草2丁目
浅草山谷町北側一部 浅草山谷2丁目 清川1丁目
浅草玉姫町西側一部
浅草町南部 東浅草2丁目
浅草山谷町北部一部 浅草山谷3丁目 日本堤1丁目
浅草田中町東側一部
浅草町南部 清川2丁目
浅草田中町東側一部 浅草山谷4丁目 日本堤2丁目
浅草町西北部 清川1丁目

 旧浅草山谷町、浅草玉姫町、浅草町について、次に略記する。
 旧浅草山谷町、後府内備考記するところの申伝によると。正徳3年閏5月本町は山谷村から分立した。町になったほうを山谷町といい、村の方を山谷村地方と称したという。何時から山谷村が存在したかは不明である。
○浅草玉姫町
 
○浅草町
 

日本堤は東浅草、清川と関連するので参照のこと。