蔵前1丁目〜4丁目

 昭和9年6月1日、御蔵前片町、福富町、新旅籠町等を整理統合し て浅草蔵前として、1丁目から3丁目までにわけられた。ついで昭 和39年1月1日、住居表示制度によって浅草桂町を併合し、蔵前 3丁目と4丁目に二分された。                
浅草蔵前という町名は幕府米倉があったことにちなんだ。この米倉 は元和6年鳥越の丘を削って隅田河岸を整理して建てられた。浅草 米櫃、浅草御蔵などと呼ばれ、幕府直轄地天領から送られた米を収 納した。幕臣の俸給である禄米はここで支給されたのである。  
○浅草福富町
 本町は、嘉永図によると西福寺の南方にあった。現在の蔵前 4丁目9番付近だ。そしてこの地は領暦所と武家屋敷などがあって 、その間に「福富町1丁目」と記されている。これは何を意味して いるのだろうか。東京府志料のいう「享保17年西福寺ノ南・・・ 此所ヘ移サル」を絵図の上で示しているといえる。嘉永図によれば 、元地を福富町といい、移ったこの地を福富町1丁目といったと解 釈できる。御府内備考には福富町という項がない。しかし福富町1丁目、同2丁目の項がある。2丁目は嘉永図によると西福寺の北に 一箇所、さらにその北東駒形町へかけて五箇所あった。おそらく享保17年に元地が消失したため六ヶ所にわけられたのであろう。
○浅草御蔵前片町
 本町は、東京案内によると「元和7年其西辺に市肆(しし)を開き、米廩の前に在りて片側町なるより御蔵前片町と称せり」と本町の起立について述べている。ところが、御府内備考は「 町屋地に相成候年月相知れ不申候」と記している。寛文図が「片丁 」と記入しているので、江戸時代初期に起立した町であるとみなし て良いだろう。享保3年一部公収。代地は茅町東側に給された。後の浅草新片町である。ついで明治5年8月浅草米倉の内七・八番倉の地と米倉役人屋敷地を合わせた。この合併地は昭和9年浅草柳橋2丁目に編入された。 
○浅草南元町
 本町は、江戸時代初期旅籠町といった。奥州街道沿の地で旅館が多かったのに基づく町名である。その後寛文8年2月米倉火除地として一部公収、代地を給された。代地は新旅籠町といった。また元禄元年10月にも同様の処置がとられた。代地は明治2年浅草旅籠町1丁目、2丁目になったところである。代地が給されるにつれ、元地を元旅籠町と呼ぶようになった。御府内備考は元旅籠1丁目、同2丁目の項を設けている。明治初年本町は旧浅草米倉の地を町域に入れた。南元町と改名したのである。    
○浅草新旅籠町
 本町は享保17年7月、下谷燈明寺店からの出火で類焼の際、米倉火除地として一部公収された。諏訪町裏通 りに代地を賜わって、新旅籠町代地といった。後の浅草新福富町である。
 明治2年の合併は同年4月29日に示達された。浅草新旅籠町元地治兵衛買下ケ池も併したという。
○浅草森田町
 本町の町名由来は御府内備考によると、元和6年浅草御蔵新設時に近くの町屋を併して起立したという。その後、享保3年類焼。翌4年一部上地されて茅町2丁目東側に代地を給わった。後の浅草新森田町である。この時第六天神宮もその近くに移された。
 東京府誌によると、明治5年8月旧浅草米倉の地と同役人屋敷を本町に合したという。
○浅草八幡町
 本町は往時高野山興山寺跡で、大護院の受領地となった。そこに町屋が開かれて大護院門前といい、明治維新後、八幡社があるのに基づいて石清水門前と改めた。そしてさらに明治2年、この町名に改称したのである。
 御府内備考によると、大護院門前は戸田能登守が寺社奉行の時開かれたというので、元禄6年以降、同12年9月23日以前に開かれたことになる。
○浅草三好町
 本町の由来は東京府誌によると、天和元年3月旧幕府坊主の受領地となり、享保17年火災で類焼後上地され堀田原に代地を給った。宝暦7年再びこの地に戻り、里俗を御厩河岸と言ったと記している。明治維新を迎え、官地と植木町の合併について、東京案内は「明治3年旧正覚寺門前即ち植木町を本町に合せり」と、浅草三好町の項で記している。年代は明治4年2月版町鑑に植木町を合併したとある。しかし、旧正覚寺門前が植木町であるというのは、明治2年5月の示達に、「浅草正覚寺門前改め浅草榧木町」と記されているので従えない。浅草榧木町は明治3年頃、浅草黒船町に併せられた町である。植木町は三好町内にあった四百七十坪ほどの地であった。
○浅草桂町
 昭和16年3月1日本町は誕生した。浅草北富坂町を中心に同南富坂町東部、同南元町と同栄久町の一部、同森下町の南隅を合して、本町の町域が定められた。町名は地元の生んだ東京市長頼母木桂吉氏の桂をとったという。頼母氏は昭和14年4月24日市長に就任、在職中の翌年2月19日没した。
 浅草桂町は昭和39年1月1日その名を消し、蔵前3、4丁目に二分されたのだった。