寿1丁目〜4丁目
明治3年浅草黒船町、浅草新福富町、浅草森下町、浅草駒形町、浅
草三間町 、浅草田原町、浅草高原町などを再編成する目的で、 浅
草 寿 町 と称する町が始めて誕生した。 しかしこの浅草寿 町は丁
目には分けられていなかった。町域も狭く、現在の町名でい うと寿
3丁目北部。寿4丁目の北側と東側一部を除く地域だった。 町域を
広げ、1丁目から3丁目までにわけられたのは昭和9年6月 1日で
ある。ついで昭和39年10月1日、住居表示制度の実施に よって
浅草寿町1、2、3丁目も4丁目を追加した形に再々編成さ れてし
まった。
浅草黒船町の起立は不詳だが、寛文図に「くろ舟丁」という記入が
あるので、寛文期にはすでに存在していたことが知れる。御府内備
考 によると、往古は武州豊島郡峡田領石浜庄新町村だったという。
享保17年3月28日、浅草本蔵寺門前(現在松が谷1丁目)から
の出火で延焼し、用地となった。代地は堀田出羽守邸跡通称堀田原
と深川黒江町に給された。その後延享4年3月26日、本町は旧地
を返還されて昔のところに戻った。嘉永図と現在の地図から推測す
るに、黒船町は奥州街道の東側に1箇所、西側に2箇所あった。ま
た同図は後に浅草寿町となった付近に黒船町の代地が3箇所あった
ことも示している。これが堀田原に給された代地である。
明治維新を迎えて本町は一変した。東京市史稿市街篇第53所収の
明治5年9月版東京区分町鑑には、同所(浅草)黒船町・里俗堀田
原ト唱候所アリ{4年町鑑、榧木町高麗町合併}と記されているの
によると、明治4年2月以降に榧木町と高麗町を合したことが知れ
る。注記の4年2町鑑伝々というのは明治4年2月版町鑑の記事を
転載したのである。ところが、東京案内と新選東京名所図会は明治
4年正月高麗町を合併したとだけある。年代はこれで良いのであろ
うが、浅草榧木町の併合について触れていないのはおかしい。両書
ともに榧木町は植木町のことで、浅草三好町に合併されたとみなし
ている。そのため榧木町は浅草黒船町に併されたといわなかったの
である。植木町と榧木町は全く別の町で、榧木町は浅草黒船町に合
したと考えるべきである。黒船町の命名の由来は諸説あるが、オラ
ンダ の黒船が破損し、その機具をここに置いたからとか、家康が伊
豆の伊東で造った唐船をここ繋留したからなどの説が有るが不明。
浅草新福富町は、往古は峡田領石浜新町村の内だったと伝えられ、
その後堀田相模守邸となったが、享保年間上地された。ついで浅草
福富町2丁目、元鳥越町新地、新旅籠町代地、天王町代地となる。
明治2年この4町を合して1町とし、浅草新福富町と改めた。さら
に同5年旧大洲藩加藤邸の土地をも合併した。
浅草森下町は、御府内備考によると、安永3年に移ってきた桃林寺
と、寛延元年に町屋を開いた金竜寺の門前町として起立された。
それ以前のこの地は沼地であった。
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