雷門1丁目〜2丁目
昭和40年8月1日住居表示の実施で、雷門1〜2丁目が発足し
た。雷門1丁目は浅草田原町1〜3丁目、浅草雷門1丁目西側を
取り入れ、雷門2丁目は浅草雷門1丁目東側大部分を編入されて
整理統合された。
旧田原町の町名の由来は「御府内備考」によると「相知不申」と
なっているが、寛永図によると「田原丁一丁目、同二丁メ、同三
丁メ」と期されているので、起立年代は江戸初期と考えられる。
また町名由来については「新選東京名所図会」は、「往古千束郷
広澤新田の内にして。浅草寺領の田圃なり。居民耕作の餘多く紙
漉を業とせしを以て俗に紙漉町と唱へしが。人家斬く過密になる
によって、三丁に区分し。もと田畑なりしに因り。今の町名を附
したりといへり。」と記述している。この記事は「東京案内」に
記するところと同じである。町内には五つの俗称があった。「御
府内備考」に基づいてその名を説明する。
○朋切長屋 一丁目の東側を里称このように称した。名称の由来
は不明。
○竈横丁 二丁目内東方の横丁に対する俗称だった。竈を造る
職人が多いのでこの名が付けられた。
○茶屋町 水茶屋が並んでいたのにちなんで、二丁目の西側を
このように呼んでいた。
○源水横丁 三丁目の中央にあった。名称は曲独楽師松井源水宅
があったことによる。
他に、三丁目の北側を俗に蛇骨長屋といった。昔蛇の骨が掘り出
されたのでこの名で呼ばれるようになったらしい。この蛇骨の名
前は現在も銭湯「蛇骨湯」となって浅草1丁目にその名残を留め
ているのが興味をそそる。
この由緒ある田原町も昭和9年6月1日、1丁目の南側を浅草寿
町3丁目に割譲し、さらに昭和40年8月1日、住居表示制度の
実施により雷門1丁目に編入されその名を消したのである。現在
は、地下鉄銀座線の駅名にその名残を留めているのみである。
余談ではあるが、本サイトを運営する亜寳麿はこの雷門1丁目に
住み浅草を散策しているのである。
浅草の観光の代表的な存在である雷門は浅草1丁目に有る。地名
は決して存在場所を意味するものではないのだ。この住所表示も
新しく付された町名ではない。昔から幾多の改名で整理統合され
てきた。嘉永期の地図によると1丁目は東仲町、西仲町。2丁目
は東仲町、西仲町飛地、茶屋町、並木町となっておりそれらと、
上記で説明した田原町を編入して浅草雷門として統合された。
現在の田原小学校付近には紙漉を職とする家が多く通称紙漉町で
漉き直した再生紙は、戦後まで、浅草花紙の名前で全国に知られ
ていた所でもある。作家の久保田萬太郎は、その付近で生まれ育
った。
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