今戸1丁目〜2丁目

 正徳3年5月今戸村の内からわかれて町方となった。明治5年寺地合併、ついで明治21年地方今戸町の浅草区編入にともない、同年3月字今都耕地、同飛地を本町に合わせた。更に昭和7年4月には浅草今戸町、浅草亀岡町、浅草吉野町、浅草橋場町を整理統合して、浅草今戸1〜3丁目にわけられたのである。そして昭和41年10月1日、住居表示制度の実施で再変され今戸1〜2丁目となった。 
 今戸町には今戸焼きの窯が有名であったが、現在は1件残すのみとなってしまった。今戸焼きで造られた招き猫が有名で、江戸招き猫の元祖であると云われている。現在も今戸神社境内にて入手できるが、素朴で柔な焼き物のわりには値段は結構高い。     

○浅草今戸町

本町の町名由来は御府内備考によると不明である。小田原衆所領役帳に、
「一 拾弐貫四百八拾文 江戸石浜今津」とあるによると、今戸は始めは今津と書き、江戸時代以前からあった地名。今津とは新しい港と云う意味で、石浜の港に次いで新しく出来た港だった。今津を今戸に改めた理由及び年代は不明。今戸と戸には水流の出入りするところといった意味がある、由良の戸、鳴戸は地名的なその一例である。年代は正保の改めに今戸とあるのをみると、江戸時代初期だったように考えられる。寛文図には「今戸のはし、今戸」と記されている。

  昭和7年4月1日 昭和41年10月1日
浅草今戸町南部 浅草今戸1丁目 今戸1丁目
浅草亀岡町1丁目東側
浅草亀岡町2丁目大部
浅草今戸町北部一帯 浅草今戸2丁目 今戸2丁目
浅草亀岡町2丁目北一部
浅草亀岡町3丁目南部
浅草今戸町北部 浅草今戸3丁目
浅草橋場町南部
浅草亀岡町3丁目北部
浅草吉野町東側一部

 

○浅草亀岡町

 昭和7年、浅草今戸町に一部編入した浅草亀岡町は、東京府志料浅草亀岡町1町目の項で、
「元ハ新町ト唱穢多ノ一部落ニテ其長弾内樹(注 内記の間違いか、一般 に弾左衛門という)モ此地ニ住セリ明治四年十月名ヲ加ヘテ普通ノ市街ニ列シ分テ一町目二丁目三丁目ノ三ケ町トセリ」と記している。これでその沿革が知れる。東京案内、新撰東京名所図会は、亀岡と称し、三丁にわけた年代を明治6年のこととしている。しかし明治5年9月版の東京区分町鑑にこの町名が記載されているので、ここではそれをちとらない。東京府志料のいう明治4年十月とみなしておく。町名は雅名えおとったのであろう。

○浅草吉野町

 本町は昭和7年4月1日、住居表示制度実施前の町域を定め、1、2、3丁目にわけられた。その中心になったのは旧吉野町であった。昭和7年変更の模様に、昭和41年10月1日実行の住居表示制度による変更を加えて示してみる。

昭和7年4月1日
昭和41年10月1日
旧浅草吉野町南部 浅草吉野町1丁目 東浅草1丁目
旧浅草亀岡町1丁目西部 今戸1丁目
旧浅草亀岡町2丁目西部一部
旧浅草吉野町中部 浅草吉野町2丁目 今戸2丁目
東浅草1丁目
旧浅草吉野町北部 浅草吉野町3丁目 今戸2丁目
東浅草1丁目
旧浅草吉野町東側一部 浅草今戸町3丁目 今戸2丁目

 昭和41年10月1日の変更は、浅草吉野町1、2、3丁目とともに吉野通によって二分された。東側が今戸1、2丁目。西側が東浅草1丁目になった。
○旧浅草吉野町

 本町について、東京府志料は、「此町正保中元鳥越町ヨリ替地ニテ引移リシユエ新鳥越町トイヒ一町目ヨリ四町目迄四町アリシヲ元鳥越町ト混シ易キニヨリ明治二年四町合併斯ク改称セリ」と述べている。御府内備考に「町名の起は正保二酉年中、元鳥越町より替地にて引来り、新鳥越町と申候」とあるのによると、東京府志料のいう正保中は正保2年ということになる。また町名は元鳥越町とまぎらわしいので改称したというが、それだけでは由来が分からない。東京案内の記事を引いてその由来を説明すると、
 「其地元と原野なりしと云ふを以て之に冠するに吉の字を以てし」ということになる。往古野原だったので野を付し、それに祝字を冠して町名にしたのだった。野原というのは多分浅芽が原のことであろう。文明18年東国に来遊した道興准后の廻国雑記は、
  浅芽が原といへる所にて
   人めさへかれてさびしき夕まぐれ
    浅芽が原の露を分けつゝ
 と記している。浅芽が原はこの付近から山谷へかけての原だったといわれている。
 府村誌によると、浅草吉野町誕生後の明治5年8月源寿院、正法寺、安盛寺、常福寺、圓常寺、貞岩寺、養白寺、念佛院、大秀寺、瑞泉寺、源照寺、光照院、仰願寺、理昌院、浄雲寺、宝蔵院の16か寺と熱田神社であったろう。いわゆる寺社地の合併だったと考えられる。その後明治24年3月に至り、地方今戸町飛地を合し、昭和7年2月1日、本町の北側を三分して浅草山谷1丁目、浅草清川1丁目。浅草石浜1丁目に割譲した。ついで昭和7年4月1日、本町は消滅し、新しく浅草吉野町1、2、3丁目として発足したのだった。