花川戸1丁目〜2丁目

 花川戸は昭和9年9月1日新しく発足した。浅草花川戸町、浅草山ノ宿町を中心に浅草馬道4、6丁目と浅草猿若町1丁目の一部を合して、1、2丁目となった。ついで昭和40年8月1日、住居表示制度の実施のともない再編された。       
○浅草花川戸町
 本町の起立年代は不明だが「東京案内」によると、「もとは峡田領に属し陸羽街道に係る。商家の開けたる頗る尚。町名は始めて政保武蔵田園簿見ゆ。天正18年浅草寺領を給せし時、其内に在りたるものなるべけれど、旧記の考ふるなし。承応以降は明に浅草寺領たり。」と、記述している。この地は古くから町屋が開かれていたとみて良いだろう。寛文11年版の寛永図には「ハナ川戸丁」と記入されている。また、「新撰東京名所図会」では、「花川戸の称に就ては従来の伝説によれば。並木の桜ある川端通 りなるを以て名く。其の渡しを花方の渡しといひしも。並木の桜ある方に渡るの義なりと。或いはいふ。端河津の訛ならむと。並木町の起源に対照すれば前節当れるに似たり。」と、記述している。「江戸の発達」(昭和31年東京都刊)によると、「川や海に臨んだ所には戸のつく地名が多く、水戸、平戸、今戸、花川戸など皆それで、江戸も江の門戸の意味であろう。」と述べている。とにかくここでは花と川にちなんで花川戸の地名が生まれたとみなしておこう。
 町内に里俗戸沢屋敷と称するところがあった。戸沢某の抱屋敷、菱屋伝兵衛の住居があったのでこう呼ばれていたという。嘉永図によると、大黒屋という俗称もあった。その由来は不明である。
 明治3年末から翌年1月頃までの間に、本町は大川橋西助成地を合した。
  風流な名前である花川戸は、歌舞伎「助六縁之江戸桜」の主人公の名が「花川戸助六」と称し全国的にその名を知らしめる。 また、旅人に宿を貸してその首を落としていた老婆が、観音の策によってわが娘を殺すという姥ケ池伝説。これにちなむ碑が花川戸公園にある。現在は靴問屋が軒を並べはきだおれ市が有名。 
○浅草山ノ宿町

 御府内備考は山ノ宿町の項で、「町名の起、町地に相成候年代不相知」と記している。本町の起立年代、名称由来共に不明といわざるを得ない。しかし若干の考察はできる。まず起立年代。寛文図に「山宿丁」と記載される。これに基づくと、江戸時代前期にはすでに町屋が開かれていたように推察される。町名の由来については、新撰東京名所図絵が、「其の名の由る所詳ならず。或は遠国より金竜山に参拝するものゝ宿せし所なるにや。古代の宿駅には遠からざる所に隅田の駅あり故に爾く思はるゝなり」と考証している。
  町内に藪の内という小名があった。藪地だったのでこう呼ばれたという。
 浅草屋山之宿六軒町 浅草山之宿町え合併(明治2年4月29日示達)
 明治初年、本町はこのような変貌を遂げた。浅草山之宿六軒町は起立年代不明であるが、正徳3年5月町奉行支配地になったというので、それ以前に開かれた町であることが知れる。嘉永図によると、山之宿町の北側にあった。
 ついで明治45年5月1日、本町は浅草山宿町を浅草山宿町に文字をだけを変えた。

花川戸に編入されたその他の旧町名は浅草の項を参照