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昭和40年8月1日、弟三次住居表示制度が実施され、浅草1〜2丁目が誕生した。浅草北田原町、浅草新畑町、浅草公園地西南部、浅草雷門2丁目南大部分が合併して、浅草1丁目となった。浅草2丁目は浅草公園地大部分、浅草雷門2丁目北一部、浅草千束町2丁目南側一部、浅草馬道1丁目西側を町域にした。その後、昭和41年10月1日、弟四次住居表示制度が実施され、浅草3丁目から7丁目までが誕生したのである。
浅草観音を祀る浅草寺は、明治6年に公園に指定され、三社祭で有名な浅草神社(旧三社権現)を含む一区から映画街で有名な六区など七区に分けられていた。仲見世、浅草公会堂のある一丁目の旧町名は、浅草雷門、北仲町などで、植木市で知られる浅間神社のある5丁目の旧町名は、寺境内の馬場への道だったことにちなむ浅草馬道、象潟(きさかた)等の町名を使用していた。6丁目
の旧浅草猿若町は芝居街だった。天保の改革で芝居小屋がここに移ったことによる。当時江戸三座と言われ日に千両の金が動くとされた江戸の一大歓楽地でもあった。聖天様で知られる待乳山聖天は7丁目となり昔の面
影は総て消え去っていった。
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| ○浅草北田原町 |
本町は明治5年、浅草田原町3丁目からわかれて起立した。東京府志料は「浅草北田原町3丁目 此町ハ五小区田原町3丁目ノ北側ナリシヲ広小路ヲ隔テ小区モ異ナルニヨリテ明治5年新ニ北ノ字ヲ加フ・・」と記録している。起立当時は浅草北田原町3丁目と称した。3丁目を略したのは明治45年5月1日のことだった。なお、本町については浅草田原町1〜3丁目の項目(雷門)を参照されたい。
本町は住居表示制度の実施によって、浅草1丁目8、9、10番地と7、11番地の西側になった。
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| ○浅草北仲町 |
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昭和9年9月1日、本町は住居表示実施前の町域を定めた。東側の大部分はこの時浅草雷門2丁目の内になったのである。この町域変更によって、この町域は旧の約4分の1に縮小された。非常に小さな町になったのだった。
江戸時代から明治初年にかけての本町は東仲町の内であった。嘉永3年版浅草鳥越堀田原辺絵図は、この地に対し「東仲町」という記入をしている。ところが同6年版今戸箕輪浅草絵図には「田原町3丁目」とある。記録上二説にわかれる。東京府志料によると、「此地ハ明治五年田原町三丁目ノ内ヲ割キ新ニ町名ヲ加ヘシナリ 往古ノ沿革市廛(してん)
起立等ハ田原町ニ同シ」と記している。これに対し、東京案内は、
「旧峡田領に属し、浅草寺の寺地に係り、中畑村と云ふ。後漸く市肆(しし)を開き、寛永廿年中町と称し、寛文元年東西二町に分ち、明治2年浅草寺裏門番屋屋敷を本町に合し、五年町南の地を割く」と述べている。「旧峡田町領・・・・東西二町に分ち、」は東仲町の沿革である。新撰東京名所図絵の説明も、東京案内とだいたい同じだ。ここでは東京府志料の説をとらず、東京案内に従っておきたい。理由は明治2年4月29日の示達に、
浅草寺裏門番屋敷 浅草東仲町え合併
とあり、この合併地が旧北仲町町内だったとみなせることにある。また明治5年9月版東京区分町鑑が
同所(浅草)北東仲町 新(五年) (浅草仲町改)
と記していることも、東京案内の説をとった理由である。
明治2年合併の屋敷は御府内備考によると浅草寺裏門先番屋鋪といった。同書はこの屋敷について、
右番屋敷の儀は寛永二十癸未年四月十五日、東仲町町割有之候節割残地に有之候裏門広小路角にて、此処へ浅草寺より木戸番人に相附候者、無年貢にて町入不差出、右に付地面
浅草寺より番人え預ケに相成居申候。
と記している。
明治5年から浅草東仲町から分離して本町は一町になった。その当時の町名は浅草北東仲町と称した。東仲町北側という意味である。そして明治45年5月1日、浅草北仲町と改めたのだった。
本町は昭和40年8月1日施行された住居表示制度によって、浅草1丁目7番東側と14番を構成した。昭和9年変更前の町域はそれに浅草1丁目5、6、15、16、22、28番を加えた地域だったと想定される。
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| ○浅草新畑町 |
| 東京府志料は、「此地ハ旧来浅草寺境内の畑地ニテ近傍ノ悪水湊合シ作物不熟ニヨリテ蔓延元年官ニ訴ヘ新ニ町屋家ヲ開キ浅草寺境内内畑町ト唱ヘシヲ明治三年上地トナリテ此町名ニ新ノ字ヲ加フ」と記している。また東京市史稿市街篇第五十三所収明治五年九月版東京区分町鑑には、「同所新畑町(新 四年十一町鑑)(四年二町鑑、東仲町田原町三丁目裏畑屋敷ヲ浅草寺境内畑町ト唱替)」とある。四年十一町鑑、四年二町鑑というのは明治4年11月版町鑑、明治4年12月版町鑑の略である。この町鑑は江戸時代より江戸の町の推移を書き記した書籍である。
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| ○浅草公園地 |
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明治6年1月15日公園設立に関する大政官布告が示達され、東京府はこれに基づき同年3月25日、浅草寺、寛永寺、増上寺、富岡八幡、飛鳥山の五公園を指定し公園としての整備を始めた。
浅草公園地については、建造物、史跡、ひょうたん池と大池、六区映画街、仲見世などを取り込んだ広い地区を想定しその公園地として指定された。公園指定当初は後記する一〜五区に相当する地域をその範囲にしていたらしい。明治9年11月新しく伝法院とその接続地及び旧浅草寺火除地を加えた。後の三区、六区である。またこの年の12月には、浅草新畑町、浅草北田原町、浅草象潟町、浅草花川戸町、浅草千束町2丁目、浅草聖天町、浅草田町1丁目、浅草馬道町1〜8丁目の16カ町を内務省に申請し十年間公園付属地とした。この16カ町からあがる地代で、上野公園を除く四公園の維持費管理費をまかなうことにしたのだった。ついで明治15年7月浅草寺の子院顕松院(現花川戸1丁目)を合併。同17年1月に至り、浅草公園は一区から六区にわけられ、同年9月には七区も追加された。
| 一区 |
浅草寺本堂周囲
浅草神社、二天文、仁王門(現在の宝蔵門、昭和39年4月再建)
五重塔(現在の塔の南側に有ったが戦災で消失)
淡島堂などがあった。
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| 二区 |
仲見世 |
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三区
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浅草寺本堂と伝法院の敷地 |
| 四区 |
公園中の林泉池、大池、ひょうたん池のあった附近(現JRA) |
| 五区 |
俗に奥山と呼ばれたところで、公園の北側。(花屋敷付近) |
| 六区 |
見世物の中心地。(当時の映画街、現在の浅草演芸ホール付近) |
| 七区 |
公園の東南部。浅草馬道一から四、五丁目等が属した |
公園七区はだいたい上記に分割され管理された。その後七区は公園地から除外され、住居表示制度の実行される時点では一区から六区までにわけられていた。もっとも、この時点での浅草公園地は従来の公園地とは性格を異にしていた。明治4年浅草寺境内は公収されて公園の指定を受けたのだが、昭和22年4月2日「神社、寺院等宗教団体ノ使用ニ供シテイル地方公共団体所有財産ノ処分ニ関スルコト」と、いう政府通
達が各地方長官に発令された。この通達に基づき、浅草公園地は同年5月1日をもって公園地を解かれたのだった。公園地から解除されて再び浅草寺の所有になったのである。したがって、浅草公園地という性格は厳密にいってここに解消した。この場所は浅草寺所有地となり、行政区画上の地名として残されたのである。なお地代が前後するが、昭和9年9月1日、二区と三区の一部を浅草雷門2丁目に割与し、五区の東側一部は浅草馬道1丁目の内となった。浅草雷門2丁目編入部分は仁王門東南で現浅草2丁目2番の内(二区)、小堀遠州作といわれている庭園部を除く伝法院敷地(三区)だった。公園地内に北谷、東谷、南谷という俗称があった。いずれも江戸時代、浅草寺の子院があったところである。本堂からみて北側、東側、南側に位
置していた。東谷は現在の花川戸1丁目北部と2丁目の南部一帯。南谷は仲見世の両側だった。また里俗奥山と呼ばれたところもあった。東京案内では「五区俗に奥山という」と記している。この奥山は盛り場として江戸人士に親しまれた。志道軒の辻講釈、豆蔵、東芥子介の品玉
、松源水の独楽廻し、長井兵助の居合抜等がここで行われ賑わった。
奥女中透見してゐる志道軒
芥子介雉子の隠れる姿あり
侍にまぎらはしきは居合抜
などの句を残している。
浅草公園地は昭和40年の住居表示制度によって、西南一部が浅草1丁目属し、大部分が浅草2丁目に編入されて現在に至る。
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| ○浅草隅田公園 |
大正12年9月1日、突然関東一円に地震が起こった。この地震に伴う火災によって、下谷、浅草は壊滅した。
関東大震災後の復興---その一環としてこの地に公園が造られた。東京市町名沿革史は、
「 関東大震災後の公園の必要性を痛感し、東京都市計画及都市計画事業として大正13年より昭和5年に至る8カ年間事業費1,190万円を以て政府の施工したる復興三公園の一つである。隅田公園は本所区新小梅町、向島小梅町、及向島須崎町の内並浅草区花川戸、山ノ宿町、金竜山瓦町、及今戸町の内52,700坪の地に設置せられたるものである」
と記している。
昭和10年7月1日、本公園地の内、浅草区側は浅草隅田公園と称することになった。従来の花川戸町、山ノ宿町、金竜山瓦町のそれぞれ一部と今戸町の一部を合したのである。ついで昭和40年8月1日及び昭和41年10月1日の二回にわけて、本地域にも住居表示制度が実施された、南から花川戸1、2丁目、浅草7丁目、今戸1丁目に編入。今戸1丁目は昭和41年10月1日実施であった。
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| ○浅草馬道町1丁目 |
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浅草馬道町は江戸時代以降、明治初年、明治10年、昭和9年、それに昭和40年の住居表示制度の実施といった変貌を重ねた。その変貌は非常に複雑である。
浅草馬道町1丁目は浅草寺地中借地町屋の内で、里俗南谷と呼ばれた所の西側である。嘉永図によると北側から梅園院、実相院、松寿院、金蔵院、観如院、日音院の浅草寺子院六カ寺が並んでいた。これが江戸時代の南谷西側である。南谷とは浅草寺本堂南側の子院街といった意味だ。東京案内では、「本町は寺地及借地町屋中南谷西側と称したる地と浅草寺裏門番屋敷と称したる地にして、裏門番屋敷は、明治2年東仲町と改め、」と述べている。本町の起立は明治10年だった。明治2年に東仲町となった裏門番屋敷は含めないほうが良いように思う。本町は浅草寺地中借地町屋中南谷西側で構成されたとみなしたい。浅草寺裏門番屋敷については浅草北仲町も参照されたい。
浅草寺地中借地町屋については、東京府志料では、
「此町ハ浅草寺境内ニテ雷神門内両側十二院ノ門前ナリ 里俗南谷ト唱フ 明治五年寺地改革ニテ宮戸町ト云町ヲ加ヘタレト後浅草寺境内ニ定マレリ 而シテ浅草寺末町名ヲ加ヘサルニ由テ暫クカク唱フ」と記している。
本町は昭和9年9月1日、浅草雷門2丁目の内となった。そして昭和40年8月1日の住居表示制度の実施によって、浅草1丁目に編入された。
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| ○浅草馬道町2丁目 |
新撰東京名所図会は、「もと南谷東側と称したる地と。南馬道町といひし地にして。明治4年馬道町の外公収せられ。今の一丁目三丁目と共に宮戸町と改称し。六年復称して公園附属地となり。十年に至り馬道二丁目〔注 馬道町二丁目の誤り)と改称せるなり」
本町についてこのように記述している。南馬道町は起立年代不詳。御府内備考は南馬道町の項で「町内之儀は往古より浅草寺境内町屋にて」と述べている。江戸時代も古くからあった町であろう。また南谷東側は嘉永図に正智院、長寿院、寿命院、正福院、智光院と記されたいる一帯だった。
昭和9年9月1日、本町は浅草雷門2丁目となった。そして昭和40年8月1日、住居表示制度の実施によって浅草1丁目東側を構成するに至った。
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| ○浅草馬道町3丁目 |
東京案内によると、本町は1、2丁目と同様に旧浅草寺領で、江戸期の南馬道新町と称したところであった。新町は、御府内備考に基づくと、享保13年12月僧正公英が寺社奉行黒田越前守直邦に出願、同15年8月晦日許可されて開いた町だった。浅草寺志は弁天山下新町として「南馬道の新町なり、北側の町をいふ、弁天池を町となせし故新町と名づく。旧記を按ずるに新町のはじまりは享保15年の秋なり」と述べている。
2丁目の項で引用した新撰東京名所図絵の記事をみていただきたい。その中に「今の1丁目3丁目と共に宮戸町と改称し」とある。これによると、本町も宮戸町と改称したようにみなせるが、それは正しくない。宮戸町は隅田川の別
称にちなんで付された町名だ。諸書をみると暫定的に存在した町だった。明治5年に起立して、翌年には消滅している。この宮戸町は本町とは関係がなかった。東京市志料市街篇第五十三所収の明治5年9月版東京区分町鑑は
同所(注 浅草)南馬道新町 (同右)(注 府志、6年2月地内ヲ削シ公園附属地トス)
同所(注 浅草) 宮戸町 新(五年)(浅草寺中借地町屋)
(浅草寺地中日音院。智光院、観智院、正福院、金蔵院、円乗院、松寿院、梅園院、正智院合併唱替、里俗南谷)
と、記録している。また旧平右衛門町名主の手記も、本町が宮戸町に改称したとはいっていない。
昭和9年9月1日、本町は大部分浅草馬道1丁目となった。一部東側の地は浅草雷門2丁目に編入されたのである。ついで昭和40年8月1日の住居表示制度の実施によって、浅草2丁目内に編入された。 |
| ○浅草馬道町4丁目 |
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本町は里俗東谷と呼ばれた地の南側、南馬道町と北馬道町のそれぞれ一部で構成されていた。東谷は浅草寺子院街とその門前町屋で、東京府志料によると浅草寺地中上地町屋といった。同書は、
「此町ハ浅草寺随身門外ニテ馬道の東ナレト浅草寺地中ニ属シ衆徒勝蔵院金剛院自性院医王院寿徳院顕松院妙音院法善院覚善院等アリ 其境内ニ開キシ町家ナリ 里俗東谷ト唱フ 明治五年上地トナリ一旦吾妻町ト命シタレト後又町名を廃シ仮ニカク唱フ」と記している。この記事によると、浅草寺地中上地町屋というのは仮称だった。また吾妻町というのは宮戸町と同様暫定的に造られた町であった。
北馬道町は起立年代不詳。江戸時代でも古くから開かれた町であったろう。或いは浅草寺門前町として、江戸時代以前からあったかもしれない、御府内備考は北馬道町について、「町名之起並町屋に相成候起立書留等消失に付相分り不申、浅草寺境内内町屋にて、地頭浅草寺へ諸役相勤申候。町方御支配相成候、年代相分不申候」と述べている。
昭和9年9月1日、浅草馬道町4丁目は西側が浅草馬道1丁目に、東側が浅草花川戸1丁目となった。ついで昭和40年8月1日の住居表示制度の実施によって、花川戸1丁目に属した。
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| ○浅草馬道町5丁目 |
東京案内は本町について「旧南馬道町の内、及北馬道町に係る。明治六年公園の附属となり、十年之を合して今称に改む」と記述している。
本町は昭和9年9月1日、北側一部を浅草馬道2丁目にわかち、大部分は浅草馬道1丁目となった。ついで昭和40年8月1日の住居表示制度の実施によって、浅草2、3丁目に属した。もっとも、浅草3丁目に入れられた部分は言問通
りの拡張でほとんどがその道路内となったと推測する。 |
| ○浅草馬道町6丁目 |
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本町は江戸期の東谷北側と浅草医王町を合して、明治10年に起立した。東谷は浅草寺地中上地(注 一般
に借地)町屋といわれたところで、明治10年までの沿革は浅草馬道4丁目の項で述べたとおりである。浅草医王町は浅草寺衆徒医王院の門前町だった。
元文3年6月、医王院から寺社奉行大岡越前守忠相に門前町開設を出願。
元文3年11月18日、右出願許可さる。
延享2年、町奉行支配地になる。
御府内備考は医王院門前の沿革をこのように伝えている。浅草医王町と改称したのは明治2年5月だった。
昭和9年9月1日、本町は大きく変わった。西半分が浅草馬道1丁目、南半分が浅草馬道1丁目、南側一部が浅草花川戸1丁目、東半分が浅草花川戸2丁目になったのである。そして昭和40年8月1日の住居表示制度の実施によって、昭和9年に浅草花川戸1丁目となった部分が花川戸1丁目となり、浅草馬道1丁目、浅草花川戸2丁目になった部分は花川戸2丁目となった。
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| ○浅草馬道町7丁目 |
本町は旧浅草寺子院で北谷と呼ばれていたところの西側である。東京府志料は北谷について、「浅草寺中上地町屋 此地は浅草寺随身門外北馬道町続キノ両側ナント寺中ニ属シ衆徒教善院不動院誠心院妙徳院修善院泉蔵院延命院徳応院吉祥院泉凌院善竜院等アリ其境内ニ開キシ町屋ナリ 明治五年上地トナリ合併シテ三社町一二町目ト唱ヘシヲ廃シテ仮ニ斯ク唱フ 里俗北谷ト云」と記している。三社(みやしろ)町1、2丁目は宮戸町、吾妻町と同様一時的に存在した町だった。東京市史市街篇第五十三所収の明治5年9月版東京区分町鑑には、
浅草三社町 新(五年)(浅草寺中境内内町屋) 浅草寺地中教善院、不動院、誠心院、妙善院、
修善院、泉蔵院合併唱替。(府誌、浅草寺境内内町屋改、六年二月、浅草公園附属トシ旧称ニ復ス)
同所同町二丁目 新(五年)同延命院、徳応院、吉祥院、泉凌院、善竜院、浅草檜久間町合併唱替
とある。 注記の寺院名と嘉永図、及び明治41年1月調査東京市浅草区全図を照合すると、本町は浅草三社町1、2丁目西側を構成したように推定される。そして三社町東側は次に述べる浅草馬道8丁目であったと思われる。三社町に名は浅草神社の別
称三社様に由来した。
昭和9年9月1日、本町は浅草馬道2丁目西側を構成し、昭和41年10月1日の住居表示制度の実施によって、浅草3、4丁目東側に編入された。
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| ○浅草馬道町8丁目 |
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本町は里俗北谷と称した地の東側を母体にして、明治10年誕生した。北谷については浅草馬道7丁目の項で述べたとおりである。
明治5年9月版東京区分町鑑の三社町2丁目の注記によると、浅草檜久間町も本町に合した。浅草檜久間町に関する記事を列挙すると、
「○元浅草常音門前所斎頭門前 浅草聖天横町え合併仕候處猶如ゝ元両門前分改メ浅草檜久間町」
(町銘唱替帳明治2年5月の項)
「浅草檜久間町 此町ハモト谷中感応寺門前山河町浅草寺地中善龍院境内町町家等ノ内ニテ明治二年山川町トセシヲ五年大半田町1丁目ニ併セ其餘ヲ此町トス」
(東京府志料)
「 八丁目は旧浅草寺領にて斎頭門前。常音門前と呼ひし地なり明治二年合して浅草檜久間町と呼ひ。四年正月公収し。(新撰東京名所図絵)
となる。浅草檜久間町は江戸時代の斎頭門前、常頭門前といわれた地で、明治2年起立した。東京府志料によると、その際一部は浅草山川町になったように見受けられる。同書が「五年大半田町1丁目ニ併セ其餘ヲ此町トス」といっているのは、明治4年公収され、同6年旧に復帰したことを指しているのであろう。東京府志料の記事と嘉永図及び明治41年1月調査、東京市浅草区全図を照合すると、この地は嘉永図に「谷中天王寺門前堺が接している地だ。そのため町銘唱替帳の記すような事態が発生するとともに、東京府志料に「大半田町一丁目ニ併セ」と書かれたのである。浅草檜久間町がこの三町のいずれにか・・、非常に問題がある。ここでは一応合併したとみなしておく。浅草檜久間町の町名は浅草寺本尊を宮戸川(現 隅田川)で拾得した檜前(ひのくま)浜成・檜前(ひのくま)武成兄弟にちなんで付された。
昭和9年9月1日、本町は浅草馬道2丁目(大部分)、浅草馬道1丁目(南側一部)になった。ついで昭和41年10月1日、浅草6丁目西側を構成し、一部は花川戸2丁目に編入されたのだった。
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| ○浅草象潟町 |
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本町について、東京府志料は、
「此町ハ華族六郷鑑ノ邸ナリシヲ明治5年11月新ニ町名ヲ加フ 名義ハ六郷氏旧領羽後象潟
ナリシ故斯ク名ケシナリ」と記している。これで浅草象潟町の起立年代と町名の由来が知れる。ただ町名由来についてはやや不十分なので補足する。
六郷政鑑は幕末から明治初年にかけて、羽後本荘で二万余石を領した殿様だった。本庄藩主である。象潟は本庄藩内の一地名だ。秋田県南部海岸沿の地で、鳥海山の西麓に位
置していた。現在そこに象潟町がある。この地名をとって浅草象潟町と命名したのだった。なぜこの地名をとったのだろう。本庄藩内名勝の地だったからである。九十九島、八十八潟と呼ぶ景勝のある入江で、仙台の松島と併称された。ところが文久元年の地震で土地が隆起し、一変し、景勝の地が滅びてしまったのだ。それを憂いでこの地に故郷を忍んだのであろう。
旧藩名を町名にした例は多いが、名勝地の名をとったのは珍しい。新撰東京名所図絵は「
蓋し六郷氏の旧領羽後の本荘に象潟の勝地あるに困る。凡そ藩邸跡の町名には往々旧藩名を用ゐしものあれども。此の如く旧領地内の勝地を故らに取りしものは他に聞かざる所なり」と述べている。この浅草象潟町の名も住居表示制度の実施しよって消え、浅草4丁目18、37、38番n東側を構成した。
浅草象潟町は昭和9年9月1日、東側大部分が浅草象潟2丁目になった、したがって、明治期の町域からすると、浅草4丁目になった部分は約十分の一に狭められていた。
六郷邸がこの地に造られたのは延宝5年の頃だった。六郷邸は吉原通いの道筋にあたっていた。そこで川柳子は
六郷を越えると見える江戸と京
舟の無い六郷を越すおもしろさ
六郷は舟より駕籠がおもしろい
と、風刺した。いずれも六郷邸を六郷川に掛けたのである。江戸と京はいわずと知れた新吉原内の町名。その町名と江戸、京都をもじったのである。
浅草象潟1、2、3丁目は昭和9年9月1日に起立した。浅草象潟町、浅草千束町2、3丁目と浅草田町1丁目のそれぞれ一部を合し、1丁目から3丁目にわけられたのである。そして昭和41年10月1日、住居表示制度の実施で再編された。
| 浅草千束町2丁目 東側一部 |
浅草象潟1丁目 |
浅草3丁目 |
| 浅草象潟町 東 大部 |
浅草象潟2丁目 |
浅草4著目 |
| 浅草象潟町 西 隅 |
浅草象潟町 |
| 浅草千束町3丁目 一 部 |
浅草象潟3丁目 |
浅草5丁目 |
| 浅草田町1丁目 西 部 |
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| ○浅草猿若町 |
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本町は従来丹波園部藩主小出氏の下屋敷であった。天保12年小出邸を公収。幕府はその跡地に堺町、葺屋町、木挽町(どちらも現中央区)の芝居小屋移転を命じた。老中水野忠邦は天保改革といわれている政治改革を行った。その一環として、風俗上の理由から江戸中心部での芝居興行を禁じた。このような時代背景によって、芝居小屋移転が命じられたのである。芝居小屋は天保13年から翌14年にかけて当地へ移った。増訂武江年表はそのいきさつを次のように記録している。
「去年(注 天保十二年)十月、堺町葺屋町の芝居焼失後、両座並操人形座、浅草山の宿小出候御下屋敷の地へ引き移るべき旨の公命ありしが、当(注 天保十三年)二月三日同所にて替地を下し給はる、(四月二十八日より町名を猿若町と号す、木挽町の芝居も追ってはここに引移るべきよして、三町分替地惣坪一万七十八坪余と聞ゆ・・)
天保十三年八月、猿若町操芝居初興行、(結城座)
天保十三年九月、猿若町一丁目中村勘三郎、同二丁目市村羽左衛門
天保十三年冬、木挽町五丁目河原崎権之助芝居顔見世狂言興行中、命ぜられて猿若町3丁目へ引移るべき替地を給ひ、翌卯年秋にいたり土木の功成て、芝居掛りの者残らず移る。
天保14年秋、浅草寺北方に芝居街が完成した。嘉永図をみると中村座、市村座、川原崎座、薩摩座、結城座と記されている。薩摩座と結城座は人形芝居を興行していた。中村座、市村座、川原崎座が世にいう猿若三座、猿若の三芝居であった。この三座の内、川原崎座は普通
河原崎座と書き、座主の関係で後の守田座、森田座と順に改称していった。
本町の町名は江戸芝居の始祖猿若勘三郎の名をとったという。猿若というのは元来猿楽の変化したもので、中村勘三郎が創作した歌舞伎狂言である。勘三郎は姓を猿若と改め、寛永元年中橋(現 中央区内)に猿若座を開設して歌舞伎興行を始めた。猿若座は二代目勘三郎が本姓に復したことによって中村座と改称。明治になって中村座は以前の堺町に戻った。このようないきさつをみると、町名は歌舞伎狂言の猿若にちなんだといえよう。いずれにしろ芝居街にふさわしい由来だった。三座の移転とともに猿若町は1丁目から3丁目にわけられた。1丁目は堺町の中村座及び薩摩座が移り、2丁目は葺屋町の市村座及び結城座で形成された。そして3丁目には木挽町から川原崎座が移転して来たのである。
昭和41年10月1日、浅草猿若1、2、3丁目は住居表示制度の実施により全域浅草6丁目に編入され、その名を消した。
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| ○浅草聖天町 |
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浅草聖天町の起立年代は不詳である。寛文図に「聖天丁」という記入があるのをみると、かなり古く開かれた町であることが分かる。町名は町内に待乳山晴天宮があるのにちなんだ。聖天宮の正式な名前は本竜院という。聖天宮は聖天を安置していることによる呼名だ。本竜院は金竜山と号し、待乳山ともいう。浅草寺の末寺である。
待乳山は隅田西岸の小丘で、江戸時代から文人墨客に愛された景勝の地だった。話題は多い。聖天宮はこの待乳山の上にある。
昭和23年10月11日、浅草聖天町は浅草山川町、浅草金竜山下瓦町、浅草山ノ宿町の北側を合した。
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| ○浅草聖天横町 |
浅草聖天横町は浅草聖天町の西側続地であった。町名の由来は浅草聖天町と同じである。横町を付けたのはその地形にちなむという。起立年代は不詳。浅草聖天町の起立よりやや遅れて起立したのではあるまいか。明治5年6月浅草寺子院の遍照院を合併。
昭和41年10月1日、住居表示制度の実施により全域浅草6丁目に編入された。
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| ○浅草山川町 |
御府内備考は「町名の起り候訳承り伝無之、年代相分り不申候」と、本町について記している。この記事によると、本町の起立年代、町名由来は不詳といわざるを得ない。ところが東京案内は、
「旧峡田領の地、元禄十一年市廛を開き。南に待乳山あり、北に山谷掘あるを以て此名あり」と記し、新撰東京名所図会も同じような記述をしている。本町は待乳山北麓で山谷掘に面
していた。小さな町だった。このような位置を考えると、東京案内のいう町名由来は一応納得できる。しかし「元禄十一年市廛を開き」というのは納得できない。これは西町の項で触れたように、辻番屋敷の移転年代を示している。御府内備考は辻番屋敷移転地の一つとして「浅草金竜山下沼地にて百三十九坪七合、右の場所は当時山川町と町名申唱」と述べている。元禄11年辻番屋敷が移転する以前、浅草山川町は存在していたように推測される。町名由来については東京案内の説に従うとしても、起立年代は不詳としたほうが妥当であろう。 |
| ○浅草金竜山下瓦町 |
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本町の町名由来は、東京府志料に、「名義ハ昔此辺ニテ瓦ヲ焼キシ地ナレハ瓦町ト名付ケタレト同シ町名浅草ノ内ニモアレハ金竜山下ト云ヲ加ヘテ分テリ」とあるので知れる。本町は待乳山の東麓に位
置し、隅田川に臨んでいた。金竜山下というのは待乳山麓に位置していたので冠称したのである。起立年代は、東京案内に「慶長中市廛を開き」とあるものの、御府内備考では、「年代相分り不申候」と記しているので不詳としておく。
昭和41年10月1日、住居表示制度の実施にともなって浅草聖天町は二分された。吉野通
りの西側が浅草6丁目に、東側が浅草7丁目に編入したのである。
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| ○浅草田町1丁目 |
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昭和9年9月1日、本町は浅草象潟3丁目、浅草馬道2、3丁目にその大半を割譲した。ついで昭和11年1月1日、本町の北一部は浅草日本堤1丁目の内となった。ここに本町は住居表示前の町域を定めたが、旧町域にくらべるとその町域は著しく狭ばめられた。またこの昭和1年には、浅草田町2丁目が浅草日本堤1、2丁目に編入されて消滅した。本町は1丁目といいながら2丁目のない町となった。そして昭和41年10月1日、住居表示制度の施行によって本町の名は消えた。
昭和9年以前の本町沿革と町名の由来を調べてみる。
御府内備考によると、本町は寛文4年から自然発生的に町屋が開かれた。同書は「田町之儀寛文4辰年より何方えも御願不申上町屋立来」と記している。その後延宝5年砂利取場から日本堤際にかけて新規家作を出願。宝永元年3月許可された。砂利取場というのは本町西側にあった。字砂利場という。万治3年江戸城普請の際、この地で工事用の砂利を採取したので、こう呼ばれた。また、その砂利場を埋立てて町屋にしたので里俗埋掘ともいった。
浅草田町が1、2丁目にわけられたのはいつか不明である。御府内備考、嘉永図によると、江戸時代すでに1、2丁目にわけられていた。
東京市史稿篇第五十三は、
同所(注 浅草)田町壱丁目 山川町合併(五年)府誌、六年十一月織田氏旧邸ち合併
同所(注 浅草)同町弐丁目 猿若町壱丁目 同町弐丁目 同町三丁目(浅草檜久間町)
と記している。この記事によると、1丁目は明治5年に浅草山川町、明治6年11月に織田氏邸跡を合したことが知れる。浅草山川町は奥州街道(吉野通
)西側に地を合わせたのであろう。一部合併だった。町銘唱替帳明治2年5月の項に、「谷中天王寺門前 浅草山川町 改メ浅草山田町」とある。この町も合併した。東京府志料は「山田町ト改称セシヲ五年此町(注 浅草田町一丁目)ヘ併ス」と記している。
谷中天王寺門前は御府内備考によると、谷中感応寺門前浅草山川町といい、宝永7年2月16日、谷中感応寺に代地として給した地だった。嘉永図には「谷中天王寺門前」「谷中天王寺門前山川町」と記されている。後者の地は浅草檜久間町と改称し、浅草馬道8丁目に併せられたように考えられる。浅草馬道町8丁目の項参照。
また明治2年4月29日の示達に、
「浅草寺割残屋敷 浅草田町壱丁目え合併」
とあるのによると、同屋敷も合わせた。この屋敷について御府内備考は浅草寺割残屋敷の項で、「右屋敷之義は往古浅草寺より領分割之節割残候町屋敷にて、町名之義浅草寺割残屋敷と相唱、万治2亥年町方御支配に相成申候」と記している。
織田邸は江戸時代前期からこの地にあった。寛文図は「ヲダ山シロ」と記入し、東京案内は「寛永四年東方の地を織田出雲守の別
邸とする」と述べている。昭和9年9月1日、浅草象潟3丁目に編入された地が織田邸跡であっただろう。嘉永図、明治41年11月1日調査東京市浅草区全図からみて、このように推定される。この織田氏は信長の子信雄の末孫で、始め大和国松山を領し、その後丹波国柏原に転封された。柏原での禄高は二万石。明治2年の殿様は信親であった。
東京府志料は、浅草田町2丁目について、
「町内ニ編笠茶屋ト唱フル家アリ 是ハ昔吉原町ノ遊客此ニテ編笠ヲ借リシ故ニカク唱フ 又孔雀長屋ト唱フル」と記されている。孔雀長屋は御府内備考によると、昔孔雀屋三右衛門なる人物が住んでいたのにちなんで付された名だという。一説に寛文の頃この長屋に美しい娘がいたのでとするものもある。墨水消夏録の説である。
浅草田町の町名由来は御府内備考によると不詳である。しかし、寛文図がこの付近一帯に「田」という記入をしているのに基づくと、田地だったことにちなむと考えられる。なお、東京案内は浅草田町1丁目の項で「始め泥町と云ひ何時の頃か田町と改めし」と記している。この泥町の由来も不詳である。
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| ○浅草地方今戸町 |
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明治初年本町は今戸町地方、今戸百姓地などと称した。東京案内、新撰東京名所図会によると、明治4年9月地方今戸町に改められた年代は不詳といわざるを得ない。いずれにしろ明治21年まで東京府北豊島郡に属していた。その年浅草区に編入されたのである。ついで明治24年3月この編入にともなう処置として浅草今戸町、浅草吉野町、浅草山谷町、浅草玉
姫町に町内の一部を割譲した。そして昭和9年から昭和16年にかけて、町の大部分は浅草田中町1丁目、浅草馬道3丁目、浅草日本堤1、2、3丁目の内となった。従来の町域を縮小された浅草地方今戸町は浅草6丁目45番地を構成した。
この遍歴を整理すると、
| 昭和9年6月1日 |
南部東側を浅草田中町1丁目 |
| 昭和9年9月1日 |
南隅を浅草馬道3丁目 |
| 昭和11年11月1日 |
南側一部をそれぞれ浅草日本堤1、2丁目 |
| 昭和16年11月1日 |
北部を浅草日本堤3、4丁目 |
といった具合にどんどん変化し、昭和41年11月1日住居表示制度の実施により、割与した部分は以下のように変わった。
| 浅草馬道3丁目 |
浅草6丁目 |
| 浅草田中町1丁目 |
東浅草2丁目 |
| 浅草日本堤1丁目 |
東浅草1丁目 |
| 浅草日本堤2丁目 |
東浅草2丁目 |
| 浅草日本堤3丁目 |
日本堤1丁目 |
| 浅草日本堤4丁目 |
日本堤2丁目 |
浅草地方今戸町の明治以前の沿革については、東京府志料が今戸町地方の項で、「古ハ今津ト云 北条役帳ニ木内宮内少輔知行十二貫四百八十文江戸石浜今津ト載タリ 今村ノ西亀岡町ノ界ヲ流ル小川ヲ今津川ト云 正保及元禄ノ改ニハ今戸トアリ正徳中村内ノ地ヲ割テ町方ヲ起立シ本村ヲ地方ト唱フ(中略) 四堺ハ橋場山谷三之輪等ニ犬牙シテ広狭弁シカタシ(後略)」と記している。本町については浅草今戸町1、2、3丁目の項を参照されたい。
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