浅草橋1丁目〜5丁目
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| 昭和39年1月1日、浅草南部一帯に新しい町が生まれた。その中に浅草橋、柳橋、蔵前があった。いずれも新しく付された町名ではない。しかし、幾つかの町を整理統合し、町界を変更して発足した町である。 浅草橋は1丁目から5丁目にわけられた。この中には旧浅草橋1、2、3丁目、浅草上平右衛門町、同左衛門町、同飼鳥町、同福井町3丁目、同向柳原1、2丁目、同蔵前1丁目、同鳥越1、2丁目が整理統合されている。 |
| ○旧浅草橋町 |
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本町は昭和9年6月1日、茅町1、2丁目、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町1、2丁目、榊町、新須賀町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町2丁目を整理統合して発足、1丁目から3丁目までにわけられた。そして昭和39年住居表示の実施にともない、1丁目、2丁目は浅草橋1丁目と柳橋1丁目に、3丁目は浅草橋2丁目、3丁目と柳橋2丁目にそれぞれ編入されたのである。町名は本町の南端に神田川架設の浅草橋があったことにちなむ。 |
| ○浅草茅町1丁目、2丁目 |
| 本町は江戸時代初期に起立した町である。御府内備考は「往古武州豊島郡鳥越村茅原ノ里ト唱候由申傳、其後何頃ニ候哉茅町ト町名ト町名相附申候」と記している。また東京府志料や府内誌残稿などによると、元和3年起立とみなせる。寛文11年作図の新板江戸外絵図2枚にも「かや丁一丁メ、同二丁目」「かや丁一丁メ、かや丁二丁メ」と記されている。 町名の由来は、隅田川河口で茅原になっていたのにちなんだのであろう。府内誌残稿では「四辺茅原なり故」とも述べている。別 説に南向茶話の「茅町は茅の売買を成しける」という記事に基づき、茅を商う者がいたのでとしているのもある。東京案内から由来を拾ってみると、 享保3年の災後、浅草橋ほとりの南方火除地となり、本町の東方松平市正邸址其代地として給せられた、之を茅町代地と曰へり。天明6年火除地をまた本町に併す。文政9年浅草橋傍の西方一旦本郷6丁目の代地となりしが、明治2年以上の二代地及第六天門前の南方河岸地を本町に合す。と記している。 国道6号線(通称江戸通)は往時の奥州街道であった。本町は奥州道沿の地として江戸時代から栄え、商店街が形成されていた。現在この界隈に著名な人形問屋が並んでいる。これは江戸期この地で人形市が開かれた伝統を受け継いでいるといえよう。御府内備考は、 一、雛人形市。 右例年二月廿五日より三月二日迄、町内にて雛市相立申候。 一、菖蒲人形市。 右例年四月廿五日より五月四日迄、菖蒲・太刀甲冑商内市相立申候。 と記していて、今も各節句の前には大勢の客で賑わっている。 |
| ○浅草下平右衛門町 |
| 本町は浅草橋の東側、神田川の合流点北側に位置していた。浅草橋西側の平右衛門町に上の字を付したのに対し、下の字を付けて区別 した。御府内備考に「下平右衛門町と里俗に唱候」とあるのによると、江戸時代の里俗をとり、明治初期(5年頃か)浅草の二字を冠して町名にしたのである。沿革、町名の起りについては浅草上平右衛門町の項目で詳細を記す。 |
| ○浅草榊町 |
| 明治5年第六天門前の名を改めて本町が発足した。町名は第六天神社が榊神社と改称したのにちなむ。 第六天神社は昔森田町(現蔵前1、2丁目、浅草橋3丁目に分割編入)にあったが、享保4年茅町1丁目東側(現柳橋1丁目)に移された。明治2年社号を榊神社に改める。新撰東京名所図会浅草区之部其一は「思ふに第六天などとは。仏教界の名称に類似せしを忌みしならむ」とその改名理由を考察している。榊神社は関東大震災後、蔵前1丁目4番の現在地に移った。 |
| ○浅草須賀町 |
| 本町は江戸時代の天王町である。天王町の名は天王社があったのにちなんだ。江戸名所図会は「祇園社、当社牛頭天王は天歴年中の鎮座なりとぞ。大倉前の総鎮守にして別 当を大円寺と号す」と天王社について述べている。天歴年中というと9世紀中頃である。随分古いので、伝承ではないだろうか。天王社は明治2年改称して須賀神社といった。これにともなって町名も須賀町と改められたのである。天王町の起立年代は不詳。往古は武蔵國豊島郡峡田領鳥越村の内であった。寛文11年版の新板江戸絵図通 称寛文図に「天王丁」と記されている。 その後幕末頃の嘉永図を見ると、奥州街道の西側、鳥越川の南側に「天王丁」と三カ所記入している。この三カ所に、嘉永図の記す天王社とその門前、大円寺、華徳院を加え、さらに街道東側の植物御用地、御蔵役人、本多中務大夫と松平伊賀守邸を合して、浅草須賀町は町域を確定した。もっとも松平邸は一部を合したらしい。一部は瓦町に編入された。この町域変更は明治2年から同5年にかけて行われた。東京府誌は5年6月松平、本多邸合併、東京市町名沿革表は武家地、官地、社地、寺地を合併したと伝えている。沿革表のいう官地は植物御用地と御蔵役人屋敷であろう。また東京案内は「明治2年4月大円寺門前、須賀門前町を本町に合し」と述べている。 |
| ○浅草新須賀町 |
| 本町は江戸期の天王町代地で、茅町の東側、榊町の北側に位置していた。浅草新須賀町に改称した年代ははっきりしない。東京案内と東京府誌は明治2年12月のこととしている。東京府志料には「明治2年町名ヲ改称シ、5年元地ニ対シテ新ノ字ヲ加フ」とある。また東京府日誌は明治2年3月五十番組の役職者とその管轄する町を示しているが、この町名はみあたらない。このようなことからみて、新須賀町と称するようになった年代は判らない。明治初年浅草新須賀町と改称したと考察しておく。 |
| ○浅草瓦町 |
| 東京府志料は、「此町元和二年町屋ヲ開キ瓦職人居住セシ故ニ町名トス。又此町地続ニ享保ノ頃松平甲斐守邸アリ後上地トナリテ市廛(してん)ヲ建ツ 之ヲ浅草瓦町続横町ト唱ヘシヲ明治2年合セ5年又徳川義宣邸ヲ併ス」と述べている。嘉永図では、奥州街道をはさんで西側に二カ所、東側に一カ所「瓦町」と記している。東側瓦町の東は瓦町続横丁で、北は松平伊賀守、御書替役所三雲新左衛門邸である。この松平、三雲両邸も瓦町であったが、延享年中公収されて松平、三雲両邸になったという。三雲邸すなわち書替役所の地は明治2年本町に合併された。松平邸は同3年4月、旧名古屋藩主徳川氏に給し、同5年東京府志料のいうように本町に合併されたのである。しかし、一部は浅草須賀町に編入されたように考えられる。 |
| ○浅草猿屋町 |
| 御府内備考によると、「往古武州豊島郡峡田領鳥越村と申候由にて、寛文7庚午年中町屋に被仰付候処、如何の訳にて猿屋町と相唱候哉相知不申候。尤土地にて申伝候には、越後國猿屋村より罷越候者にて、猿屋加賀美太夫と申舞太夫にても御座候哉、右の者往古当所に住居罷在候由、其後町屋に被仰付候ても里俗に猿屋と相唱、自然町名相成候由」とあるのによって知れる。新編江戸志料は猿引きが多く住んでいたからだといっている。 寛文7年町が開かれて以来、幾つかの返還があった。享保17年3月28日、浅草本蔵寺門前(現浅草4丁目北部付近)から出火、本町も類焼した。そのため同年5月一部米倉火除地として公収。代地を諏訪町西側、堀田相模守屋敷跡に賜った。猿屋町代地という。明治以降の新猿屋町である。 寛政元年12月、公収された土地の東側に札差御改正会所が造られ、同6年2月にはその隣接地に御廻米会所が造られた。前者は札差から御家人達へ貸し出す金利の取り締まりを所管し、後者は上納米を改めたりする役所であった。 明治3年正月版町鑑によると、浅草末永町は江戸時代の芝御掃除屋敷代地で、明治2年4月29日付示達によって改称した。芝御掃除屋敷代地は、文化8年5月御掃除の者に与えられた。芝の旧地が公収されたのにともなう代地であった。御掃除の者というのは、この場合芝増上寺の将軍廟を管理する幕使である。この代地はもと猿屋町内だった土地で、享保17年の災後明地になっていた。掃除の者にその明地を給したのだった。 浅草末永町合併に続いて、明治6年5月には旧札差改正会所地、旧廻米会所地、池田氏邸を合した。池田氏は備前鴨方二万五千石の領主で、最後の殿様は政保といった。鴨方藩は備前岡山三十一万五千余石の支藩だ。政保は名君といわれた岡山藩主池田光政の末孫であった。 |
| ○浅草上平右衛門町 |
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本町の草創人は平右衛門といった。平右衛門は遠州浜松の人で、天正18年家康の江戸入国に従って江戸へ下り、当地に住んだ。元和2年家康が浅草寺へ詣でた際、この地に町屋を開くことを命じられた。町名は平右衛門が住んでいる土地ということで付され、平右衛門は名主になった。 |
| ○浅草左衛門町 |
| 東京案内によると、「慶長以来旧荘内藩酒井氏の邸地たり。明治元年之を公収し、市廛(してん)を開き平右衛門町に隣接するの故を以て、新平右衛門町と称せり、地神田川に臨み、酒井氏世々左衛門尉と称するより、里俗之を左衛門河岸と云ひ、明治廿三年十月遂に町名となす」と記している。これで本町の沿革はほぼつきる。荘内藩酒井氏は明治2年現在で十二万石、領主は酒井忠宝であった。酒井氏は徳川家の譜代大名。一族一門からは大老になった忠勝、忠世、忠清らがいた。この地は酒井家の下屋敷である。 本町は住居表示制度の実施によって、全域浅草橋1丁目に編入された。 |
| ○浅草餌鳥町 |
| 本町は昭和18年9月15日、神田区から浅草区へ編入替された町である。往古は鳥越村の内であったが、元和2年旗組御家人の拝領地となり、神田八名川町と称した。旗組というのは旗奉行に属した同心である。戦時将軍家の軍旗、御馬印等を奉行とともに従うことを職務とした。 その後享保12年10月に至り、餌鳥請負人が町奉行大岡越前守忠相に土地拝領を出願、同年12月18日に許可された。鷹狩りに使う鷹の餌を納入したのが餌鳥請負人である。その屋敷地になったので餌鳥屋敷といった。明治2年4月、餌鳥屋敷があったのにちなんで神田餌鳥町と改めた。東京府志料は明治5年改称としている。しかし、ここでは同2年4月29日の示達には「神田餌鳥屋敷改、神田餌鳥町」とあるのをとった。なお、餌鳥屋敷は神田八名川町内の一部に造られた。したがって神田餌鳥町と改めて以後、神田八名川町は別 に存在していた。 本町は住居表示制度の実施にともない、浅草橋4丁目5、6番地を構成した。 |
| ○浅草福井町 |
| 東京案内では、「古の鳥越村の内也。延宝2年旧久保田藩佐竹氏の邸地と為り、享保3年其西北隅を割て支族佐竹氏の邸とし、明治3年佐竹氏邸を上地して、旧桑名藩松平氏に賜ひ、4年其西北地を改めて佐竹氏に賜ひ、5年二邸を合せ、福井町に隣れるの故を以て、今名を付し、後開て市廛(してん)とす」と記してある。 久保田藩佐竹氏は出羽秋田城主で、義宣の代に常陸から出羽へ国替えとなった。支族佐竹氏は秋田新田(後岩崎藩と改称)二万石の領主で、義宣の二代後から本家とわかれた。明治4年再び邸地をここに賜わった佐竹氏はこの支族佐竹氏であった。旧桑名藩は明治2年現在六万石で、領主は久松(旧姓松平)定教である。 昭和9年6月1日、本町の東半分は旧浅草橋2、3丁目の内となった。そして同39年1月1日施行の住居表示制度によって浅草橋1、2丁目に編入された。 |
| ○浅草福井町3丁目 |
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本朝の起立は享保11年である。福井藩邸跡だったので福井町と称し、1丁目から3丁目までにわけられた。昭和9年6月1日、1丁目と2丁目は旧浅草橋2丁目、3丁目に編入させられた。これ以降福井町は3丁目だけで、1丁目と2丁目が存在しない変則的な町となった。 |
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