秋葉原

 秋葉原は昭和39年1月1日、住居表示制度の実施により、松永町と練壁町を合併して誕生した。秋葉原と言えば電気街で有名だが、秋葉原駅と電気街は千代田区内神田に所在し住所としての秋葉原はこの狭い一角だけである。
○松永町

 本町は昭和18年9月15日、区境変更によって神田区から下谷区に編入された。26番地から29番地までの1879.12坪の小さな区画である。本町の沿革は元禄11年に始まる。この年鎌倉町から西紺屋町までの堀端道を拡張するため、鎌倉町・銀町1丁目・本町1丁目・北鞘町・呉服町・元大工町・檜物町・上槙町・南槙町・桶町・狩野深信屋敷・五郎兵衛町・北紺屋町・南紺屋町・西紺屋町がそれぞれ一部上地された。翌年5月8日代地をここに与えられ、神田松永町と命名した。上地された町はほとんど神田を冠称していた。そこで新しく起立した松永町も神田を付した。しかし曲輪内(外堀の内側)から外に移されたので外神田というべきであった。ちなみに外神田の称はこの附近一帯の里俗として江戸期以来最近まで存続した。現在は千代田区となっている。
 本町は明治5年附近の武家地を合併して町の形態を整えた。町名は「松の緑のように永く変わらないように」ということにちなむとも解せる。だが、御府内備考は「如何も訳に候哉不相知、神田松永町と町名相唱来候」と述べている。この永く変わらない名前も住民の意に反して昭和39年の住居表示制度でその歴史を閉じたのである。

○練塀町

 江戸時代の本町は武家地であった。町としての起立、町名の由来は、東京府志料では「元禄年間マテ溝口信濃守ノ邸アリテ外囲練塀ナリシ故ニ里俗練塀小路ト唱ヘシヲ明治5年町名トス」と記している。また町名起源には御府内備考によると、「南の隅河野某が屋敷に目立たる練塀ありし故呼名とす・・」とうい説もある。文化年間の絵図に「ネリカベコウジ」という記載があるものの、それ以前の地図にはみあたらない。文化頃から呼ばれた俗称であろうか。
 明治23年11月1日、上野・秋葉原間貨物線開通によって、町は二分された。これが変貌の始まりである。ついで大正14年11月1日、上野・神田間の高架線開通 にともない、秋葉原駅が大拡張されて、町は狭くなった。さらに昭和18年9月15日、下谷・神田区境界変更の実施で、町の南半分が神田区に編入、ますます町域を狭めた。この時の変更で、松永町北部が台東区に編入され、練塀町の一部を千代田区に移したのである。
 練塀町は、講談・芝居でおなじみの河内山宗春が住んだ地といわれている。宗春は文政6年恐喝で捕らえられた実存の人物。講釈師の二代目松林伯円がその事件を取材して、「天保六花選」を作った。河竹黙阿弥がそれを歌舞伎に脚色。この芝居はいまもしばしば上演されている。