隅田川の由来
隅田川の名称の推移と由来
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隅田川の名称と由来 利根・入間・荒三河の下流であった隅田川は、文禄三年(1594)忍城主松平忠吉がその臣小笠原三郎右衛門に命じ、治水のため利根川の流れを渡良瀬川下流の太井川(現江戸川)に導いてより、入間川と荒川の末ということになった。利根川はその後変貌を経て、現在の鹿島灘に注ぐ水路を形成するに至ったのだ。利根川の水路を太井川に誘導したことによって、当然隅田川は減水した。その間の事情を物語っていると思われるものに、落穂集追加の「老人物語仕候は、手前など子供の節ハ、浅草川のはば只今の通りには無之、干汐の外に川はばせまく流るる故、川向ふの児共と、此方の子供と、川ばたに立ち向ひ、石つぶてを打合申したる事之候」という記事がある。そして東京市史稿はその後の川巾の変化について、江戸川にも流れ込んでいた荒川の水をすべて入間川に合わせて隅田川に落とし、下町の埋め立てが完成したので水路を緩慢にしたからだといっている。利根川と荒川の水路を再三にわたって変えたため、隅田川の上流も遍歴を重ね、川巾も変化したわけである。そして、江戸時代中期頃には入間川を併呑した荒川が隅田川の上流となって、現在に至る形態が整えられたと想像される。また本所・深川の整地が進んで河口の位置が変わったのは、万治(1658〜1660)から寛文(1661〜1672)にかけてであったろう。四代将軍家綱の時代である。寛文十一年(1671)刊行の寛文図は海岸線を越中島付近に描いている。
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| 隅田川の名称に用いし文字は下記の如し。 | |
| 墨田 | 東鑑・八雲御抄・回國雑記・梅花無尽蔵・夫木抄・大日本史 |
| 墨多 | 墨田・伊勢物語 |
| 角太 | 万葉集 |
| 角田 | 東路道記・惺窩文集・羅山詩集 |
| 以上みな仮名なり。今は隅田川n文字を公用す。 | |
| 以下は文人詩客の私用せる文字なり。 | |
| 隅川 | 徂徠復爽鳩子万書 |
| 墨水 | 釈了玄七律詩題 |
| 澄江 | 徠徂七絶東都四時楽 |
| 墨陀河 | 周南五言古墨水泛舟作 |
| 墨河 | 蘭亭雨中放舟五律 |
| 墨川 | |
| 墨之洲 | |
| 墨之水 | 以上春台七言・古録竹歌 |
| 墨水 | 東野復候書 |
| 墨 | 述斉偶筆 (さんずいの墨の文字だが当用漢字に無し) |
この記事には、隅田の字の造りについて大政官符が住田と書いている逸していること、伊勢物語で角田ろしているものがあるのを記載していないこと、義経記・源平盛衰記を出典に挙げていないことなど不満な点がある。また、角田と記しているのに万葉集があるとしているのにも不備がある。これは万葉集第三所載の弁基作「亦打山(まつちやま)、暮越行而(ゆうこえいきて)、廬前乃(いほざきの)、角太河原爾(すみだがわらに)、独可毛將宿(ひとりかもねむ)」の句に基づいて挙げたのであるが、この句のいう角太河原は隅田川と関係ないとみるのが定説で、大和或いは駿河の角田川であると一般にいわれている。不満不備があるとしても、全部を網羅して欠点のないものにすることは困難であるからやむを得ないであろう。これだけのものを引用して集約した労を多としなければならない。なお江戸時代の絵図は、角田・隅だと書くのが普通であった。また異称については、澄陀、隅江などというのもあったようである。 隅田川の別名には、浅草川・大川・宮戸川などがある。浅草川と大川は、ともに江戸時代になってから呼ばれるようになった名で、それ以前この呼称を使用しているものはみあたらない。浅草川が浅草を流れているので名づけられた別名であることは、浅草の地名が古くからあったことを考えあわせれば容易に類推できよう。したがってこの名で呼ばれた部分は、浅草を沿岸にしたところである。御府内備考も「浅草の東辺を流るるゆへ呼名とす。」と記している。大川は、隅田川の別名として江戸・明治両時代を通じてもっとも一般に親しまれた名で、浅草付近より下流をいったものらしい。その名の起こりは、下町唯一の大河であったところにゆえんしている。昨今ではあまり耳にしなくなったが、江戸情緒豊かな、そして明治調の色濃い大川の名は忘れ去るに忍びない名称である。宮戸川は浅草寺縁起に記されているので、古くからあった名であると考えられている。しかし、縁起のいう宮戸川から浅草寺本尊を拾得した時代が明確でないため、何時頃から別名として存在していたかを知ることはできない。天正日記のこの記事を紹介して「隅田川ニ宮戸川ノ称有ルコト、実ニ此ノ日記ニ見ユ。」と評している。信頼できる文献で宮戸川の名を記しているのは、この天正日記が最初である。天正十八年(1590)の事件に関係して宮戸川の名が記されているのでその名は家康入国以前からあったと想像できる。したがって浅草川・大川よりも、宮戸川は古くからあった隅田川の別称であるといえよう。その名のいわれについては、文政寺社書上が宮戸森神社の由来を述べた項で「(前略)宮戸森稲荷大明神と崇め奉る也。前の川をも夫よりして宮戸川と唱ふるも、当社の宮居有りしに依て也。」と記しているので推察できるものの、この説は宮戸森神社を主体にしているため偏見の感が強い。むしろ江戸砂子が宮戸森稲荷の項で「宮戸森宮戸川当所の古い名なり」と述べているのに基づいて、浅草寺周辺に古くから宮戸という地があったのにちなんで名づけられたと考えるほうが妥当ではないだろうか。ただ、江戸砂子以外に宮戸という地名について述べているものがみあたらないので、これをただちに真説とするわけにはいかないうらみがある。ほかに、真土山の聖天があるからがとか、宮n字はもと三谷と書いたのであるから三谷(山谷)の地名をとったのだという説もある。またいささか突飛であるが、在五中將の「名にしおはばいざこと問はん都鳥・・・」を始め都鳥を詠んだ歌が多いこと、この付近が都鳥の群生地であることに結びつけて、宮戸(みやこ)川と呼ぶようになったと考えることもできるであろう。墨水消夏録は「昔浜成竹成か宮戸川にて漁せし時浅草の観音網にかかりてあからせ給ふ川なり。それを今宮戸(みやと)川と唱ふるは誤りなるへし。戸の字に”こ”の声ありて”と”のよみあり。みやと川と二字なからよみに読て難なし。みやこ川と云時は、宮の字は訓によみ、戸の字を音によむ事いかがなれとも、かようによむことまた多し、しかれはみやこ川というなるへし。夫故此川にすむ鳥をみやこ鳥と云とかたる人あり。」と述べている、都鳥の名は川の名にちなんで呼ぶようになったといっているのでこの説とは逆になるが、みやこという読み方も充分できるわけである。以上述べてきたように宮戸川の名のいわれについては明白に知ることができない。ここでは一応江戸砂子の説をとって、古い地名にちなんで名づけられたとみなしておく。宮戸川の造りは墨水遊覧誌などによれば、三谷戸川とすることもあった。その流域は、ほぼ浅草川と同じであったとみなしてよいだろう。 隅田川の呼称は何処から何処までを差していうのだろうか。これについたは、岩渕水門より下流、千住大橋より下流、鐘ケ渕より上流をいうのだなどといわれている。江戸時代以前、荒川を併呑した利根川が鐘ケ渕付近で入間川と合流していたことを考えると、隅田川は鐘ケ渕より下流の名であるとみなすべきではないだろうか。また水路変更後も、荒川は戸田川・千住川の別称で呼ばれ、鐘ケ渕より下流を隅田川と称したように思われる。その隅田川も、浅草沿岸では浅草川・宮戸川・大川の別称をつけられていたのである。もっとも、紫の一本・墨水消夏録が千住の下流を隅田川といい、そのまた下流を浅草川と称したという記事を残しているので若干問題があるが、一般の説からこのように解せる。大川の名は隅田河口の変化にともない、浅草から浜町へと変わって行ったようである。 |
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台東区編纂 道路・橋梁考より