あほまろとモモちゃんの今朝の浅草日記

平成18年8月17日 (木) 旧暦7月24日赤口

- 造られた自然 -

日記


『今朝の浅草』
 遠くでモモちゃんが“早く行こうよ”って、叫んでいます。昨夜の疲れが抜けきらないのか、朦朧としながら“モモちゃん怒っているんだろうな・・・”
 田舎の民宿に二泊して気付いたのは、「無音」でした。夜になると、全く音が消え去ってしまうのです。窓の側に寄って行くとかすかに聞こえてくるのが水の流れる音と虫の鳴き声だけでした。そんな「無音」の世界に突如襲いかかってくる蚊の羽ばたき、来られるものなら来てみやがれ、都会で聞くのとは全く違ってかすかな蚊の位置関係までをも把握することが出来るたのです。
 布団の中でそんなことを思い出しながら、今さっき蚊に刺されてしまって晴れ上がった左手首をさするあほまろでした。

 今朝のモモちゃん、暑さにも関わらずとっても元気ですよ。あほまろが帰って来て安心したのか、始終嬉しそうに尻尾を振りながら歩いているのです。いつものお友達に出逢っても、“今日はパパと一緒だよ”って得意そうな顔、してましたよ。犬だってちゃんと愛情を解っているのでしょうね。途中、何度も後ろを振り返りながらあほまろの顔を確かめる今朝のモモちゃんでした。

 本当の自然に浸って来ると、創られた自然にはかなさを感じてしまいますね。色といい形といい、総てに人間の手が入っている自然であっても緑に安らぎを感じている。僅か三日間でしたが、本当の自然の中で生活をして来るといつも見慣れている浅草寺境内が、まるで、お芝居の舞台の大道具で有るかのようにも感じてしまったのです。
 それと、都会の緑はどうしてこんなにも色が濃いのだろう・・・。
------○------  
『今朝の雷門』
 三日ぶりのご無沙汰です。三日前と変わったのは、右の交番の掲示板に貼られたポスターだけかな。
   
 最近、雷門の裏で針の糸通し器を売っているテキ屋さんが変わりましたね。
   
  
------○------
『今朝の一写』
 都会からも田舎からも大勢の方が浅草寺を訪れます。そして記念写真を撮って帰ります。でも、早朝から一人寂しくやって来る方もいらっしゃるのですね。言ってくれたら撮ってあげるのに・・・。
  
------○------
『今朝の境内』
 蒸し暑い境内。昨夜来の雨であちこちに水溜まりが出来ていました。
   
 おや、撮られているよ。お嬢さんに気付かれてしまいました。こんな時は、笑顔で会釈をするのが一番なのです。そして、必ず“私たちを撮っていただけますか”って、カメラを差しだして頼まれるのですよ。
   
 弁天山の弁天堂にただいまです。
   
 浅草神社にただいまです。
   
 浅草の神田、長野の水田はみんな稲穂が出てきてましたが、こちらはまだというか、今年は育たなかったのでしょうね。
   
 神社の猫ちゃんは、モモちゃんを怖がらないのです。 
   
 花やしき前のレトロな長屋
、いったい何処の修復を行っているのか、先週から全く変わっていないのですけど・・・。
   
 お盆の飾りなのでしょうかね・・・。とある中華屋さんの店先に置かれてました。
   

------○-----
 浅草に直接関係の無いお話も多いですが。ここは、あほまろの呟きですかね。

『今朝の余談』
 コンビニも無く携帯電話も繋がらない山村。そこに何代も暮らしている方々にはそれが有ったら便利だろうけど、無くてもさほど不自由とは感じていないようです。
 「家に電気が来たのが私が小学校の低学年の頃でしたね。始めて電車を見たのもその頃だったかな。電車に乗ったのは小学校6年生の遠足で豊橋まで行った時、その時、始めて海も見たんですよ。」
 長野県阿南町和合日吉地区で快く取材に応じてくれた熊谷さんは、あほまろと同じ団塊の世代の方です。今回の取材で特に興味が有ったのが、いわゆる昭和の田舎の生活でした。当時の子ども達の遊び道具は、お祭りのたびにやって来るテキ屋さんが、子供の流行を届けていたのです。メンコやカードなどから野球や相撲の人気者の話題は得れたのですが、やはり情報の中心はテレビだったのです。テレビによって、人里離れた山村であっても情報だけは都会と平等にもたらされたのでした。

 熊谷家にテレビが来たのは、忘れもしない東京オリンピックの時でした。その頃、自分の山の100年物の檜を一本売っただけでテレビが買えたそうです。ところが、現在は輸入材が需要の大半をしめ、60年物の檜一本が1000円でも売れないのだそうです。それでは手間賃も出ず、間引きもせずにほったらかしになってしまった人工林が雨で崩れ、今回の天龍川上流の集中豪雨のような被害をもたらしていると嘆いてましたよ。
 今回、それは置いといいて、テレビがやって来た日のことにしましょう。映画「三丁目の夕日」のように、テレビがやって来ると、テレビの上にトンボの羽根にようなアンテナを置き、電源コンセントを差し込み、スイッチを入れる。じ〜っと画面に注目すること数十秒、じわ〜っと写ってくる映像・・・。それは都会のはなし。
 山村のアンテナ工事はちょっと大げさになってしまうのです。熊谷家のテレビは、数十名のアンテナ設置の作業員と共にやって来たのです。子供心に、テレビが来るとその日から見られると思ったのは大間違い、それから二ヶ月もの間、自宅に泊まり込んだ作業員によって悪戦苦闘の毎日は続いたのでした。
   
 小型のテレビなんて存在しない時代、まずは作業員がテレビと発電機を背負って、あっちの山こっちの山と、あたりを付けた山々に昇って受信実験を行うのです。確実に受信出来る場所を見付け、それからが更に大がかりな作業になって来るのです。
 まずは、アンテナ線を引くための通路を確保するために森林を切り開き、せっかく受信できた電波の減衰を避けるために途中途中に中継器を設置しなければいけません。そこまで引く電線のための電信柱敷設工事等々、作業開始からおよそ2月かかってようやく熊谷家の居間でテレビを観ることができたのです。
 アンテナ設置作業にかかった費用は、テレビの価格の数倍も要したそうです。当時はそれらも、100年物の檜数本でなんとかなってしまったんですよ。

 こちらの写真は、下の○が熊谷家の場所。上の○がアンテナを設置した場所。なんと、その距離直線で300メートル、山間をぬって引かれたアンテナ線は1キロ以上にもなったそうです。
 ここまでしても観たかったテレビジョン。そのおかげでどんな山村であってもみんなが共通の情報を得ることができたのでしょうね。
 昭和、レトロ。語られるのは都会の生活が多い中で、田舎のそれも日本の過疎ナンバーワンの地で見付けた昭和の思いで。しっかりまとめてどっかの雑誌にでも書いてもらいましょうかね。
   
 こんなジャングルのような森林・・・。に、見えるでしょう。実は、かつての桑畑を改造して造られたこんにゃく畑なのです。大木に見えますが、高さは僅か30センチほど、こんにゃくは出荷まで4年の歳月を費やして栽培されているのですよ。
   


今朝の写真
CANON EOS-30D,CANON ZOOM EFS10-22 F3.5-4.5 / EFS17-85 F4/5.6 IS
撮影枚数65枚