2003年10月14日 火曜日


今朝の写真
SONY DSC-F707
撮影枚数23枚

連休も終わり

 連休の最終日の午後。突然に土砂降り
が襲ってきました。10階の我が家から
下を見下ろすと、雨を避けようとと逃げ
まどう人達の様子が、蜂の巣を突いたよ
うな状態と表現したくなるほど。僅か3
0分の間に50ミリ以上も降ってしまっ
たのです。
 4時過ぎに雨が止み、熱いほどの陽射
しが戻ってきました。久しぶりに女房も
一緒にお散歩です。女房は、モモちゃん
と同時期に我が家にやってきたヨークシ
ャテリアのハニーちゃん。勿論、あほま
ろはモモちゃんです。家を出た時には、
アスファルトがまだ濡れているのですが
、歩いているうちにどんどん乾いていく
のです。自然の力って凄いんですね。あ
れだけ激しい雨だったのに・・・。改め
て自然の威力を思い知らされたのでした

 この雨のは、あちこちに影響を与えて
しまいました。急激に水位が上がってし
まった隅田川。河川敷の青テント連中が
集まって、引っ越しか何かの算段をして
おります。今戸の体育館脇の道は、40
〜50センチの水溜まりになってしまい
、交通は遮断。一昨年まで「平成中村座
」の仮設小屋が有った場所です。もし、
今年もここに小屋掛けをしていたら、公
演中に避難勧告が出たかも知れません。
 肝心の平成中村座といえば、何事も無
かったかのように佇んでいましたが、周
囲の壁に貼られたポスターが無惨な状態
を晒していました。ここの大きめのポス
ターは、数が足りなくなったのか、一部
インクジェットプリンターで出力した物
が貼られております。そのポスターの色
が落ちてしまい。勘九郎が扮する「岩藤
の亡霊」がより恐い雰囲気を演出してい
るのです。この状態を、写真家の荒木氏
に見せてあげたいですね。彼なら、きっ
とこのポスターを貰っていくかも知れま
せんよ。荒木氏の写真以上に迫力が増し
てしまったのですからね。
 ♪汽笛一声新橋を〜・・・。明治5年
の今日は旧暦の9月12日、新橋〜横浜
の間に、わが国最初の鉄道が完成し開通
式が行われたのでした。
 記録によると、当日は快晴で、明治天
皇をはじめ三条実美・副島種臣・西郷隆
盛・板垣退助らの明治維新をなし遂げた
人々、それに当時の政府の中心的な指導
者たちを乗せた特別列車が午前10時に
軍隊の101発の祝砲と共に、新橋駅を
出発したのです。
 新橋と横浜の間は、約30kmありま
す。休み無しに歩いても大人の足でも、
7時間はかかるでしょう。それを僅か1
時間足らずで結んだのですから、当時の
人はきっと驚いたにちがいありません。
 折り返し新橋まで戻られた明治天皇よ
り、「さらに拡張して、鉄道を全国に延
ばしなさい」という命令が出され、それ
からは驚くほどのスピ−ドで日本全国に
鉄道網が充実していったのでした。
 その頃、東北地方からの玄関口として
、ここ浅草にも鉄道敷設の話が持ち上が
ったのでした。しかし、あえて鉄道の駅
なんてのを造らなくても、当時の浅草は
東京で一番賑わっている場所。地元商店
街の猛反対で鉄道敷設を断念せざるを得
なかったのです。
 そのため、寺町だった上野周辺に敷設
することになったのでした。それからお
よそ130年。かっての繁栄が薄れてし
まった浅草に、旧国鉄時代の名残の鉄道
がやってくるのです。
 秋葉原とつくばを45分で結ぶ「つく
ばエクスプレス」です。完成は平成17
年ですが、先日ようやく駅名が決定いた
しました。数年前から、浅草の繁栄を願
って六区の名を、いやいや観音様にちな
んだ駅名が・・・、等々色々な駅名が取
りざたされていました。沿線の住民は、
新しい路線に相応しい駅名を楽しみにも
していたのです。
 この鉄道を運営する「首都圏新都市鉄
道株式会社」の発表によると、
 『駅名につきましては、これまで仮称
でしたが、沿線の自治体から会社あてに
 各駅名の推薦を頂きまして、これを踏
まえ、以下のように決定いたしました』
 って訳で決まりました。浅草は「浅草
」です。新御徒町は「新御徒町」です。
この調子で、もちろん終点秋葉原は「秋
葉原」。浅草から東も同様、南千住は「
南千住」、北千住は「北千住」・・・。
これが、真新しい路線の新しい駅名なの
です。
 まるで、これまでの仮称駅名通りの決
定ですね。これじゃ、今までみんなが楽
しみに応募してきた経緯は、いったい何
だったんでしょう。昨年も、浅草の有志
によって開催された「浅草がんばる会」
では、ビートたけしが決めた「浅草六区
駅」ってのを推薦することになっていた
はず。その場所に、鉄道会社の社長も同
席していたのですけどね。