2003年9月19日 金曜日


今朝の写真
SONY DSC-F707
撮影枚数40枚

日に千両

 いつもより1時間早い散歩です。この
時間は、広い浅草寺境内の人口密度は、
限りなくゼロに近い状態です。この状況
で始めてここを訪れた人に、三社祭を始
めとする、様々なイベントで境内を埋め
尽くす人の群なんて創造ができないでし
ょうね。
 閑散とした境内ですが、早朝から、来
月から始まるイベントの準備が忙しそう
に行われています。特に、本堂裏広場で
建設中の“平成中村座”に至っては、外
装はほとんど完成し、すでに、大提灯が
ぶら下がった室内では、舞台と客席造り
が行われておりました。
 既存の劇場ではなく、期間限定の芝居
小屋を建て臨場感たっぷりの公演をおこ
ないたいと、平成12年から始まったこ
の公演、東京での公演は2年ぶりです。
 今年は、歌舞伎発祥、そして江戸開府
400年記念にちなんで、これまでの隅
田川河畔から浅草寺境内に場所を移して
の開催となったのです。
 天保12年(1841)老中水野忠邦
の天保の改革で江戸市中にあった芝居小
屋は風紀を乱すからという理由で、浅草
猿若町という閉鎖された空間一カ所に集
められ、まるで遊郭のように閉じこめら
れてしまったのでした。猿若町の名は江
戸歌舞伎の始祖、猿若勘三郎に由来して
いるといわれております。この猿若町は
一丁目から三丁目まであり、一丁目には
中村座、二丁目には市村座そして三丁目
には守田座がありました。これがいわゆ
る江戸三座と言われております。このう
ち守田座は休座が多く次第に、控え櫓の
河原崎座が代って興行するようになった
ため、江戸三座の中に河原崎座を入れる
書物も存在するようです。どちらにして
も、この猿若町は、幕末まで江戸で一番
の賑わいを見せる場所となったのです。
 明治5年(1873)になると守田座
が新富町に移り、他の二座も明治25年
までに鳥越町、下谷ニ長町へと移ってし
まい、猿若町は芝居町としての役目を終
えたのでした。現在は、当時の面影は全
く無くなってしまいましたが、芝居の小
道具で有名な、「藤波小道具」さんが往
時を偲ばせてくれているようです。
 この猿若町が芝居町と名を馳せた時代
はわずか30年ほどでしたが、三座が競
い合い、お互いのライバル意識が、歌舞
伎狂言によりいっそうの磨きをかけたの
でした。また、浅草生まれで、歌舞伎作
家として有名な、河竹黙阿弥もこの時代
に活躍したのでした。
 平成中村座は、小屋全体がテントで覆
われた仮設の小屋ですが、往時の中村座
の姿は、現在も残っております。そうで
す、江戸東京博物館の常設展示室、江戸
ゾーンの芝居小屋が、中村座なのです。
毎年11月の顔見世興行の賑わいの様子
を多様な看板等で示しております。小屋
を真上からも見られるように出来ており
、電気の無かった時代。舞台照明のため
の天井からの採光場所など、興味は深い
当時の智恵も見ることが出来るのです。
 もう一つ、京都東映太秦映画村や日光
江戸村などにも、往時の姿の「中村座」
が有ります。ここでは、歌舞伎の興行も
出来るようになっているようですが、定
期興行などは無いようです。
 当時は、日に千両の金が動いたといわ
れる、この浅草にも常設の芝居小屋が欲
しいですね。