2003年2月17日 月曜日

今朝の写真
SONY DSC-F707
撮影枚数28枚

“氣”

 駆け足の青森で、たった一日居なかっ
ただけなのですが、浅草寺境内が何か広
くなった感じなのです。近づいてみると
、大銀杏の枝落としが行われたのです。
毎年この時期は、新芽が出てくる前に昨
年育った枝を切り落とす作業が行われる
のです。これで、境内は空が開けたよう
に広く見えるのです。でも、ちょっと寒
々しい感じでもありますけどね。こんな
変化、モモちゃんも感じているのかな。
 ここには、第二次世界大戦で焼け残っ
た大銀杏がまだ2本も元気に生きていま
す。どっちの銀杏も根本部分は真っ黒に
焼け焦げ、今でも炭化した状態で残って
います。そんな状態であっても、毎年ス
クスクと小枝を茂らせる生命力に驚きを
感じるのです。
 ある気学の先生が言っていたことを思
い出します。”氣”とは生命力のこと。
それは人間や他の動植物それぞれが持っ
ている生命力であり、更にその生命を生
み出し、育んでいる大自然の根本的な生
命力そのものだということ。また、人間
は、大自然に育む動植物から発せられる
”氣”によって、生命力の一旦を担って
もらっているのだとか。
 昔から社寺の境内にには、樹齢何百年
という樹木が生い茂り、人々はそれを鎮
守の森といって親しんできました。社寺
にお詣りするってことは、心神的な徳を
備わるのと同時に、そこに足を踏み入れ
ることによって、鎮守の森から発せられ
る”氣”を知らず知らずに受け取ってい
たのでしょうね。だから、今でも社寺は
有り難い場所なんでしょう。
 しかし、最近の都会の社寺は、土地を
維持するのが難しいのか、利殖のためな
のか、広い境内を売却してマンション等
を誘致し、そのビルの中に本堂を設ける
不埒な社寺も見受けられます。こうなる
と、人間本来が持ち合わせる自然との共
存、『人間が大自然の一部である』とい
う天地の大道をも、失ってしまった場所
に真の神が宿る訳はないのです。
 我々の日常生活の中には”氣”に関す
る言葉が沢山あります。元気、勇気、活
気、気合、志気、強気、本気、気楽、気
鋭、陽気、根気・・・等々、みんな力が
湧いてくるような言葉なのです。また、
反対に、弱気、陰気、内気、気が滅入る
、気が重い、気にかかる、気を抜く、気
がゆるむ、気にさわる・・・等々、悪い
意味にも使われるのは、すべて、”氣”
の無いことを指しているのです。
 あほまろの毎朝の散歩は、大自然に育
む動植物からの”氣”と、信仰心からの
”徳”を頂くための散歩なのです。それ
によって、散歩をしないよりも、多少は
長生きできると良いのですがね。”氣”
は生命力を高めることらしいので。