2002年4月20日 土曜日       

今朝の写真 
CANON EOS-D60
TAMRON SP ZOOM 24-135 F3.5-5.6
撮影枚数40枚

歴史の証人
 流鏑馬が行われる隅田公園一帯では、式の進行
のリハーサルが行われている。隊列を組んだ武者
姿の競技者が馬に乗り、本番さながらの練習が繰
り返されていた。本番は本日午後1時より行われ
る。何が歩いているのか興味深そうに隊列を眺め
ていたが、犬と猫以外の動物を見たことのないモ
モちゃん。突然馬に向かって吠えだしてしまった
。吠えられた当の馬たちは吾関知せず。気どった
ように平気を装って歩いている。さすが小笠原流
の流鏑馬に参加する馬達にも気品を感じてしまっ
た。それにしてもモモちゃんの目には、このどで
かい馬達が何に見えたのだろうね。      
 小笠原流といったら、あほまろは華道、茶道を
連想するが、馬術や兵法にもその作法があるよう
だ。小笠原流の宗家小笠原長清は、応保2年(1
162年)甲州に生まれ、26才のときに源頼朝
の糾方(弓馬術礼法)師範となり、その後代々伝
えられて今に至るという。特に7代の小笠原貞宗
と清経家7代の小笠原常興は、共に後醍醐天皇に
仕えて、武家の定まった方式として、『修身論』
と『体用論』をまとめた。これが小笠原弓馬術礼
法の基本になったそうだ。現在、小笠原流を受け
継ぐのは、平成6年12月、弓馬術礼法小笠原流
31世宗家を襲名披露した小笠原清忠。
 こんな事にも宗家が存在する日本文化の奧の深
さに今更ながら驚かされる。今日行われる小笠原
流流鏑馬は、射手の服装は立烏帽子、綾藺笠を被
り、鎧直垂に射小手を着け、行騰・太刀を履き箙
を負い弓矢を持つ。この服装はあげ装束ともいわ
れ鎌倉時代の武士の狩装束。約250メートルの
馬場を猛スピードで馬を駆けさせながら、3つの
的を次々に射る勇壮な行事なのだ。 
 この流鏑馬も吉野朝以来一時衰徴しましたが、
徳川時代に入り徳川吉宗の命により20代貞政は
享保9年(1724年)奥勤めの武士たちに流鏑
馬、笠懸の稽古をつけ、そして古儀の他に、新し
い流鏑馬を、小笠原家に伝わる書類を参照して制
定したそうだ。この後、将軍の誕生・病気平癒の
祈願には、度々高田の馬場などで流鏑馬が行われ
ていた記録が存在する。           
 もうすぐ端午の節句。浅草寺境内には鯉のぼり
が揚げられた。端午というのは、五月の初めの午
の日をさすのだが、いつのまにか五月五日に固定
されてしまいましたようだ。江戸中期、寛政時代
庶民の間で、中国に古くから伝わる登竜門の伝説
になぞらえ、竜門の滝を登り切ると鯉が竜になる
ように、我子も健康に育ち、将来は大きく出世し
て欲しいとの気持を込め、和紙に鯉の絵を描いた
ものを軒先に吊したのが始まりと言われる。今の
ような鯉のぼりが一般的になったのは、大正時代
で、破れない綿の鯉のぼりが生まれた。また、昭
和三十年代の半ばには雨にぬれても色落のしない
合成繊維の鯉のぼりが誕生し、現在に受継がれて
いる。先週、社員旅行であほまろが行った平家の
落人の地と言われる湯西川温泉では、昔から源氏
の追っ手に見付からないように、鯉のぼりを揚げ
ない風習が残っているとガイドブックに書かれて
いるが、平家の落人が逃げ回ったいた頃には、鯉
のぼりなんてのは存在しなかったことになるのだ
が・・。歴史って、どこまで信用したら良いので
しょうね。数千年後の歴史書には、平成時代の浅
草では源頼朝が小笠原弓馬術礼法によって流鏑馬
を行っていたなんて書かれているかもしれないね
。今日は、そんな歴史の生き証人として勇壮な流
鏑馬の見物だ!