2002年1月11日 金曜日       

今朝の写真
CANON EOS-D30
CANON ZOOM 17-35 F2.8他
撮影枚数戎334枚 朝32枚

十日戎
 大阪は十日戎(とおかえびす)までお正月気分
なのだ。あほまろはこの十日戎に通い始めてもう
20年になる。今では毎年の恒例となってしまい
、もし来なかったら今年一年福の授からない年に
なってしまいそうな、そんな予感が当たらないよ
うにとお参りをするのだ。お参りのもう一つの楽
しみは、選りすぐりの美人が福娘となって、笹に
福を授けている光景を撮影することだ。今年も大
阪の友人に預けておいた脚立を持っての出陣。大
阪独特で節度と秩序の欠落した混雑の中、もみく
しゃにされながら、今宮戎神社境内を美人探して
走り回ったのだった。            
 ”♪商売繁盛で笹持って来い!”ラップのリズ
ムにも似たかけ声と、大阪出身の芸能人の馬鹿笑
いを聞きながら戎祭の雰囲気を楽しむ関西独特の
お祭りは、関東の酉の市と似て非なるもの。御利
益を授かりたくて、関西弁独特の罵声を発しなが
ら我先にと福娘に群がる群衆を見ていると、無秩
序の中にも示し合わせたように暗黙の秩序を保ち
ながら楽しんでいるようにも思える。十日戎は、
豊臣時代の頃より庶民のえびす様への信仰がより
厚くなり、また豊臣秀頼は片桐且元に社殿造営の
普請奉行を命じ庶民信仰の形を整えていった。ま
たこの頃より市街が発達し、大阪町人の活躍が始
まり、江戸期になると大阪は商業の町としてより
一層の繁栄を遂げ、それと期を一にして今宮戎神
社も大阪の商業を護る神様として篤く崇敬される
ようになった。十日戎の行事もこの頃から賑わい
をみせ、延宝三年の現存する最も古い大阪案内の
図「葦分舟」にも十日戎の状景が描かれている。
 また文芸の分野においても江戸初期の俳人小西
来山の句集で今宮のことが書かれており、中期の
大田蜀山人の紀行文にも十日戎が記され、浄瑠璃
「艶容女舞衣」では十日戎が重要な背景として設
定されてもいる。この日は大阪の芸者衆が寳恵駕
(ほえかご)と呼ばれる辻駕籠に乗ってお参りす
る伝統の行事も参拝客に華を添える。江戸期に作
られた錦絵にも描かれ、参拝の光景は歌謡にも次
のように唄われている。          
「十日戎のうりものは、はぜ袋に取鉢、銭かます
、小判に金箱、立烏帽子、米箱、小槌、たばね熨
斗、笹をかたげて千鳥足」         
 明治には、それまでの問丸が雑喉場の魚市場、
材木商組合、麻苧商組合、蝋商組合、漆商組合、
金物商組合等講社を結成し、十日戎はより一層盛
んになった。このように時代とともに盛大になっ
てゆく十日戎だが、惜しくも昭和二十年の戦災で
神社はことごとく焼失しましたが、昭和三十一年
には本殿が復興し、再び十日戎も活況を呈するよ
うになった。9日の”宵戎”10日の”本戎”そ
して11日の”残戎”と、大阪では年の最初のお
祭りとして戎様の3日間には約百万人を超える参
詣者があるそうだ。この日記をご覧のみなさまも
写真の福娘に手を合わせ、今年一年の福を授かっ
てみては如何でしょうか。